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上杉 憲寛(うえすぎ のりひろ)は、戦国時代の武将。関東管領。古河公方・足利高基の次男〔通称が「四郎」である通り、実際には四男(高基にとって四番目の男子)で、同母兄の足利晴氏との間に足利高実、雲岳(同母兄、俗名:足利時氏)という兄がいたとされる。〕。母は宇都宮成綱の娘・瑞雲院。 養父は上杉憲房。上杉氏時代の別名に憲広(読み同じ)。 上杉氏を追われた後は、「足利」に復姓した上、同母兄の足利晴氏と同様に、将軍足利義晴から(或いは晴氏から直接)偏諱の授与を受けて足利晴直(はるただ/はるなお〔「直」の読みに関しては足利満直と同様。〕、宮原晴直とも)と名乗った。 == 生涯 == 大叔父(祖父・政氏の実弟)の上杉顕実との争いに勝利して山内上杉氏の家督と関東管領職を継いでいた上杉憲房(当時は男子がいなかった)の養嗣子となる。大永5年(1525年)に憲房が死去した時、実子の憲政は幼少だったことから、跡を継いで関東管領となった。 その頃、扇谷上杉家の上杉朝興は台頭する北条氏に対抗するために、江戸湾の支配を巡って後北条氏と対立関係に陥っていた小弓公方足利義明(血縁的には叔父で妻の父でもある)との連携を図り、更に上杉一族の結集を目指して山内上杉家の当主である憲寛にも協力を求めた。憲寛はこれに応じたものの、実父の高基とその弟である義明は古河公方の地位を巡って敵対関係にあり、朝興を介在して義明とも同盟関係に入った憲寛は結果的に父・高基や兄・晴氏とも戦うことになった〔千野原靖方『新編房総戦国史』崙書房出版、2000年、P51-62〕。 更に享禄4年(1531年)、関東享禄の内乱の結果、管領職を失う〔黒田基樹 「関東享禄の内乱」 『関東足利氏と東国社会 中世東国論 5』 岩田書院、2012年〕。以上の経緯から古河に戻ることが出来ず、真里谷信政を頼って、義明の支配下にあった上総宮原に移住して(この時に晴直(前述)に改名)、同地で死去した。 孫の義照からはその地名により宮原氏を称し(今日では、晴直自身も宮原晴直と呼ばれることがある)、江戸幕府の旗本となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上杉憲寛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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