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上杉 房定(うえすぎ ふささだ)は、室町時代後期から戦国時代前期の守護大名。越後・信濃守護。上条上杉家の上杉清方の子で上杉房朝の養子。上条房実の兄。定昌、顕定、房能の父。 15世紀後半の約46年という長きにわたって越後を支配し、関東で享徳の乱や長享の乱を戦う過程で守護領国を完成させた〔羽下徳彦 「越後における守護領国の形成」 『史学雑誌』68編8号、1959年。(同著『中世日本の政治と史料』 吉川弘文館、1995年 所収)〕。 == 生涯 == === 越後守護就任と国内の掌握 === 宝徳元年(1449年)2月、従兄の越後守護上杉房朝が急死し、房朝の側近である長尾頼景らに後継として擁立された。翌宝徳2年(1450年)12月に房定は京都から越後へ下向し頼景の伯父の守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害し、実景は信濃へ逃れた。この事件を揚北の国人中条氏は「一国之動揺」と記している。邦景父子は室町幕府と鎌倉府の政治的・軍事的緊張の中で力を伸ばしたが、鎌倉府の滅亡、次いで嘉吉の乱の6代将軍足利義教暗殺によって政治的地位を低下させ、京都で力を盛り返した守護に対抗できなかった〔佐藤博信 「越後応永の内乱と長尾邦景」 『新潟史学』9号、1976年。 『新潟県史 通史編2 中世』 など。〕。 府内での政権掌握に成功した房定は京都に戻ることなく自ら越後の支配に乗り出した。翌宝徳3年(1451年)3月、下郡の国人に対する示威行動のように弥彦神社へ参拝した。同年5月には信濃で復帰運動を続ける実景への合力を禁じる御教書が越後の国人へ発給された〔室町将軍家御教書写 (『新潟県史 資料編中世』No.2036)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上杉房定」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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