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上杉 綱憲(うえすぎ つなのり)は、出羽米沢藩の第4代藩主。高家肝煎・吉良上野介義央の実子(長男)で、上杉氏に養子入りする。藩主在任中は、教学振興を行い、後に藩校興譲館となる聖堂・学問所を設立する一方、財政窮乏を悪化させた。 == 生涯 == === 米沢上杉家の相続 === 高家肝煎・吉良義央の長男として誕生する。幼名は三之助。母は上杉綱勝の妹で義央の正室富子。寛文4年(1664年)閏5月10日に、米沢藩第3代藩主であった伯父の上杉綱勝が嗣子の無いままに急死した。米沢藩は無嗣断絶により改易されるべきところを、綱勝の岳父であった保科正之(陸奥国会津藩主)の計らいによって、義央と富子の間に生まれたばかりの三之助を末期養子とすることで存続を許された。義央は扇谷上杉家の上杉氏定の血を引いている。「会津松平家譜」によると、幕閣では綱勝の後継者に保科正之の子の正純を据えることも検討されていたが、正之が謝絶したとされている。 三之助は上杉喜平次景倫(かげのり/かげとも)と改名し、6月5日に正式に上杉家の当主となった。時に2歳。竹俣義秀や中条知資らの補佐を受ける。 末期養子による相続の代償として、信夫郡と伊達郡を削られ藩領は置賜郡のみとなり、30万石の所領は15万石に半減された。このため米沢藩は恒常的な財政逼迫に悩まされることになった。 7月11日、幼少の藩主・喜平次に代わって家臣が謝礼のため、4代将軍徳川家綱の御前に出て綱勝の遺品の左吉貞の脇差及び徽宗帝猫の書の掛幅を献上した。寛文8年(1668年)8月25日、喜平次自身が初めて将軍に御目見する。延宝3年(1675年)11月23日、将軍家綱の御前で元服し、養父同様、家綱の偏諱をうけて綱憲と改名し、従四位下侍従弾正大弼に叙任した。義父の綱勝と同名となることを避けるため、諱の下の字(2文字目)には、曽祖父の景勝、祖父の定勝、伯父の綱勝と3代に亘って通字化していた「勝」の字ではなく、かつての上杉氏の通字であった「憲」の字を使用した。綱憲以降は現在に至るまでこの字を使用する当主が多くみられる。「勝」の字は四男・勝周を祖とする新田上杉氏へと継承された。 上杉家では延宝2年(1674年)4月に綱憲の傅役である竹俣充綱が上杉家の家史編纂を進言し、延宝5年(1677年)4月には正式に着手され、元禄9年(1696年)5月には「謙信公御年譜」が、元禄16年8月には「景勝公御年譜」が完成した〔西川広平「米沢藩士市河家による系図作成」『山梨県立博物館 研究紀要 第5集』(山梨県立博物館、2011年)、pp.67(36) - 66(37)〕。 延宝6年(1678年)、徳川御三家の一つである紀州藩主・徳川光貞の娘である栄姫と結婚する。正室の縁により、徳川綱教は義兄、徳川頼職、徳川吉宗は義弟となった。延宝7年(1679年)4月21日、初めて封地の米沢に入部を許される。天和元年(1681年)4月19日、新将軍徳川綱吉から行光の刀を賜う。 元禄2年(1689年)11月、実家の吉良家に後継者がいなくなっていたことから、次男の春千代(のちの吉良義周)を父・義央の養子とした。こうした3重の縁により、吉良家と上杉家の関係は親密なものとなった。吉良家の普請や買掛金は上杉家が負担するのが恒例となった他にも、毎年6000石の財政援助が吉良家に対して行われた。この負担の大きさに、上杉家の江戸勘定方須田右近は、米沢の重臣に宛てた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と嘆いている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上杉綱憲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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