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畠山 義春(はたけやま よしはる)は、戦国時代の武将。畠山氏の一門である能登畠山家に生まれ、上杉謙信の養子の一人となるが、後に元の畠山家旧跡に復した。 == 生涯 == === 上杉家臣時代 === 天正5年(1577年)に七尾城が上杉輝虎(謙信)に落とされると、一旦上杉一門の上条政繁のもとへ預けられた後に謙信の養子となった〔高橋義彦編『越佐史料』五ー四一七、『上越市史』別編1上杉氏文書集一(1368)〕。その後、上条政繁〔従来、後に養父となる政繁と義春は同一人物といわれてきた。「上杉氏系図」「外姻譜略」(『上杉家御年譜』)では政繁と義春を別人として記載している。参考 今福匡「戦国期上条氏の実相」(『歴史研究』466号)〕 に子がなかったため、改めてその養子となる。畠山氏は足利氏一門の名門で、足利氏の外戚である上杉家との血縁も有し、家格も充分(謙信は名門の家柄には敬意を持っており、その血筋も養子にした一因と思われる)であった。 成人後は越中・能登前線に配置され、後に養父に従って信濃の海津城に赴任する。天正12年(1584年)、長男景広(景勝の甥。この時まだ景勝に子がいなかったため)を人質として豊臣家へ送られることが決まると、証人として義春も上洛した。その際に代償として軍役と領内の諸役を免除されている。 天正14年(1586年)、政繁が上杉家を出奔し、のちに義春自身も天正16年(1588年)頃に出奔した〔天正16年正月、景勝主催の連歌会の参加者に上条弥五郎(弥五郎は政繁・義春・景広が名乗っている)の名前があり、景勝の発句に続いて詠んでいる。藤木久志「連歌をよむ武士たち」(『戦う村の民俗を行く』朝日新聞出版)〕。との説もあるというが、『上杉家御年譜』では長男景広と次男長員は父と行動をともにし、三男義真のみ越後にとどまるも、ほどなく父のもとに赴くとある〔なお、「文禄三年定納員数目録」には「上条様附」として8名の家臣の知行高が記載されており、「会津御在城分限帳」「直江支配長井郡分限帳」にも「上条弥五郎 1100石」の記載がある。参考 矢田俊文他編『上杉氏分限帳』高志書院〕。 出奔の理由については、景勝と信濃統治などをめぐる対立があったとされるほか、景勝の側近として頭角を現していた直江兼続による讒言説、さらに当時上杉氏に叛旗を翻していた新発田重家と養父政繁が親しい仲にあったなどの諸説がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「畠山義春」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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