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上村 彦之丞(かみむら ひこのじょう、嘉永2年5月1日(1849年6月20日) - 大正5年(1916年)8月8日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。従二位勲一等功一級男爵。あだ名は「船乗り将軍」。 == 経歴 == 薩摩藩漢学師範・上村藤一郎の長男として薩摩国鹿児島郡鹿児島城下平之町(現在の鹿児島県鹿児島市平之町)に生まれた〔上村彦之丞誕生地 - 鹿児島市 2013年5月26日閲覧。〕。鳥羽・伏見の戦い、会津戦争〔『鈴木貫太郎 鈴木貫太郎自伝』「上村少将の教訓」〕を戦った。海軍兵学寮に進んだが、在籍中に西郷隆盛が下野したことを受けて上村も鹿児島に帰った。しかし西郷の説諭により兵学寮に戻る。山本権兵衛、日高壮之丞らが行動を共にしている。在学中の成績は不良で後に海兵2期から4期となるべき生徒全員が受けた試験で最下位となった。雲揚艦乗組みとなって再教育を受けた後、少尉補試験に合格。4期生として卒業したが、席次はやはり最下位であった〔『海軍兵学校物語』pp.18-19。『海軍中将 中澤佑』「海軍人事の取扱いに対する反省」では38名中36番である。〕。しかし将官となってからは、海軍教育本部長や、軍務局長を務めるなど、軍政面でも活躍した。また常備艦隊司令官として指揮した兵学校30期の遠洋航海は、日本が司令官を据えて行う練習艦隊のはじまりである〔『異色の提督 百武源吾』p.17〕。 日清戦争では「秋津洲」艦長として出征。第一遊撃隊に属し豊島沖海戦では「操江」を降伏させた。これは日本海軍が敵軍艦を降伏させた最初の事例である〔『大山巌』「豊島沖海戦」〕。続いて黄海海戦でも武勲を挙げた。日露戦争では第二艦隊司令長官として、蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊を撃破。日本海海戦では判断よくバルチック艦隊の進路を塞ぎ、戦勝の重要な基因をなした。1907年(明治40年)に男爵を授爵。 戦後は横須賀鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を務め、海軍大将で退役となった。軍功から元帥となる可能性もあったが、実現していない。黒木為楨陸軍大将と同様に、剛直で荒々しい性格が評価されなかったともいわれている。ただし、元帥就任は大将として大きな功績を挙げたものという条件があり、日露戦争における上村の階級は中将であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上村彦之丞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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