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上林 暁(かんばやし あかつき、1902年(明治35年)10月6日 - 1980年(昭和55年)8月28日)は、日本の小説家である。高知県西部の幡多郡出身。本名は、徳廣巌城(とくひろ いわき)。 ==来歴・人物== 高知県幡多郡田ノ口村下田ノ口(現在は幾多の町村合併を経て黒潮町)に生まれた。 高知県立三中(現高知県立中村高等学校)の時代には、雑誌『文章世界』に影響を受け、友人らと語らって回覧雑誌『かきせ』を発行し、この頃に小説家になる希望を持った。また、芥川龍之介に傾倒する。 1921年(大正10年)に熊本の第五高等学校文科甲類に入学。入学した年に校友会雑誌『龍南』の懸賞創作に応募した『岐阜提燈』が三等に入選。翌年には雑誌部委員となる。1922年(大正11年)に高等学校の寮を出て、熊本市上林(かんばやし)町75の森山方に下宿、「上林」の筆名は、このときに住んだ地名に由来する。 東京帝国大学文学部英文科に進学し、1927年(昭和2年)に卒業後は改造社に入社。『現代日本文学全集』の校正や雑誌編集に従う傍ら、同人雑誌『風車』を刊行し、同誌に『渋柿を囓る少年又は飯を盗む少年』『凡人凡日』『夕暮の会話』を発表する。改造社では従業員の執筆活動を禁止していたため、「上林暁」の筆名を用いた。 1932年(昭和7年)8月、『薔薇盗人』が川端康成に、「云ひたいことを実によく裏に押しこめながら、反つてよく貧苦を浮ばせ、目に見えぬものを追ふかのやうな少年の感情を生かしたことは、生活を見てゐる眼の誠実の手柄である」と激賞され注目されたが〔川端康成「文芸時評 新人の作品」(読売新聞 1932年8月4日号に掲載)〕、1938年(昭和13年)の『安住の家』により、ようやくその作風を確立した。1939年(昭和14年)に妻の繁子が精神病を発病して、1946年(昭和21年)に亡くなるまでの間、『聖ヨハネ病院にて』などの“病妻もの”を書き、広く読者に迎えられた。 1962年(昭和37年)、二度目の脳出血で半身不随となったが、妹・睦子の献身的な介護と口述筆記により『白い屋形船』以下の小説を書きついだ。 尾崎一雄と並び戦後期を代表する私小説(心境小説)の作家である。生活上の不遇を背景としつつも、それに負けない向日性をストイックで端正な文体が支える。また、話し言葉がリードし独特のリズムをもつ尾崎の文章を“音楽的”と評するならば、一種幻想的とも言える色彩感覚をもつ上林の文章は“絵画的”と評することができるだろう。上林と交際していた作家の伊藤整は、「上林君などの私小説家の生き方から最もよく日本文学を学んだ」と書いている。 代表作は、『薔薇盗人』『聖ヨハネ病院にて』『春の坂』『白い屋形船』『ブロンズの首』など。 1969年、日本芸術院会員。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上林暁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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