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上田 萬年(うえだ かずとし、1867年2月11日(慶応3年1月7日) - 1937年(昭和12年)10月26日)は、日本の国語学者、言語学者。東京帝国大学国語研究室の初代主任教授、東京帝国大学文科大学長や文学部長を務めた。小説家円地文子の父。教え子に新村出、橋本進吉、金田一京助、亀田次郎らがいる。また、文部省専門学務局長や、1908年に設置された臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。1908年帝国学士院会員。 == 生涯・人物 == 1867年(慶応3年)、尾張藩士の息子として江戸大久保の尾張藩下屋敷で生まれる。名は「かずとし」と読むのが正式であるが、本人は「まんねん」という読みも採用しておりローマ字の Mannen というサインも残されている。 東京府第一中学変則科(現・都立日比谷)の同期には、澤柳政太郎、狩野亨吉、岡田良平、幸田露伴、尾崎紅葉らがいた。またこの頃、教育令改正のため、のちに第一中学から新制 大学予備門へ繰上げ入学した。その後、1888年(明治21年)帝国大学和文科(のちの東京帝国大学文科大学)卒業。在学中はバジル・ホール・チェンバレンに師事し博言学(「博言学」はPhilologyの訳で、「言語学の当時の呼び方」とするのは少しずれる)の講義を受けた。卒業後大学院に進み、1890年(明治23年)国費でドイツに留学。ライプツィヒやベルリンで学び、さらにパリにも立ち寄って1894年(明治27年)に帰国する。留学中、東洋語学者のフォン・デル・ガーベレンツに出会い薫陶をうけた。またユンググラマティケル(青年文法学派)の中心人物、カール・ブルークマンやエドゥアルド・ジーフェルスの授業を聞いた。サンスクリット語の講義も受けている。 帰国後、東京帝国大学文科大学博語学講座教授に就任、比較言語学、音声学などの新しい分野を講じ、当時古文研究にかたよりがちであった日本の国語学界に、近代語の研究、科学的方法という新風をふきこんだ。 1899年(明治32年)文学博士号取得。東京帝国大文学部長等を経て、1919年(大正8年)から1926年(大正15年/昭和元年)まで神宮皇學館(現・皇學館大学)館長兼務、1926年(大正15年/昭和元年)から1932年(昭和7年)まで貴族院帝国学士院会員議員。1927年(昭和2年)東京帝国大学(東京大学)を定年退官し、1929年(昭和4年)まで國學院大學学長を務めた。1937年(昭和12年)、直腸癌のため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)51頁〕。 明治期に日本語そのものが大きく動揺していた中で、西洋の言語学を積極的にとりいれ、また日本の国学の伝統を批判的に継承して、標準語や仮名遣いの統一化に尽力した功績は大きい。 文部省著作の「尋常小学唱歌」の歌詞校閲担当者の一人であり、今日著名な高野辰之よりも権限が大きい立場での校閲者であった。東京(江戸)生まれでドイツ留学という点で、「尋常小学唱歌」作曲主任であった東京音楽学校の島崎赤太郎教授とは標準語のアクセント重視という点で気脈を通じていたと考えられる。 上田万年が行った言語研究の中での最大の功績は、1901年にドイツで行われた正書法を日本の言語政策に応用しようとした点である。 旧仮名遣いの混乱を質すために、すでに明治維新以来「言文一致」への移行が必要なことは誰の目にも明らかだった。1901年上田万年は、言語学会などを立ち上げながら、明治期にできる最新の方法で「言文一致」の表記を勘案した。長音記号の「−」の採用、また1903年発行『仮名遣教科書』に見える新仮名遣い(これを「発音式」と呼ぶ)などがこれである。 この仮名遣いは、文部省内においても、初等教育での教科書にほとんど採用の予定であったが、岡田良平、森鷗外など旧仮名遣いに固執する人々による運動の末、1907年に貴族院が発音式から歴史的仮名遣いに改正すべき建義案を文部大臣に提出、また1908年臨時仮名遣調査委員会第四回委員会での森鷗外による「仮名遣意見」によって完全に消滅する。 上田万年が日本の言語学及び国語学において果たした役割は大きい。それは多くの研究者を幅広い分野において育てたこと、また明治以降の実践的日本語教育を行う際の発音式仮名遣いへの争点を明らかにしたことである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上田萬年」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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