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上田城(うえだじょう)は長野県上田市二の丸(旧・信濃国小県郡上田)にあった日本の城である。なお、現在残っている城は、仙石忠政によって寛永年間に再建築城されたものである。 == 概要 == 上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった。北に太郎山、南に千曲川があり、築城前は土豪小泉氏の古い城館が存在した(現在、二の丸より西側の小泉曲輪と呼ばれている場所)と伝えられる。城の南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込み総構えとし、唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがある。 上田城は、信濃国小県の真田本城主の真田昌幸が当主であった真田氏により、1583年(天正11年)に築城された平城である。天正11年、天正13年、天正18年と何度かの過程を経て築城をされたものである〔寺島隆史「第一次上田合戦前後における真田昌幸の動静の再考」(『信濃』62巻5号、2010年)〕。1585年、1600年と二度にわたる真田氏と徳川軍との上田合戦で知られる。しかし、昌幸が属した西軍が関ヶ原の戦いで敗れ、昌幸が九度山に配流となると、1601年に上田城は徳川軍に破却され、堀も埋められた。 江戸時代には上田藩の藩庁が置かれていた。関ヶ原以降に同地を領した真田信之は、上田城が破却されていたため元々の居城である上野国沼田城を本城とし、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて統治を行った。この頃、城下町の整備が行われた。真田信之は徳川氏の幕府に対し、元和7年(1621年)に城の再整備・拡張を申請するが却下され、元和8年(1622年)9月には信濃国松代へ転封された。後は小諸藩より仙石氏が移封された。仙石忠政〔仙石忠政とその父である仙石秀久は、先の上田城攻めの際、徳川方として城攻めに加わっており、戦後の破却作業(城割り)にも加わっている。仙石氏の上田移封は、忠政が幕府に願い出た申請が通った結果だとされている。〕は破却されたままの上田城の再建を申請し、寛永3年(1626年)から現在の上田城が普請されることとなった。真田氏時代の縄張りをも利用していると推測されているが、徹底破却ののちに近世城郭として新たに築城された。本丸には櫓7棟、櫓門2棟、それらを繋ぐ塀が普請された。現在ある本丸の3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)など建物の外壁は煤と柿渋で防水した板を用いた下見板張の黒い外観である。二の丸にも櫓や櫓門を再建するため、櫓台なども構築されたが、寛永5年(1628年)4月20日仙石忠政の死により工事は中断され、これ以上の増築は行われないまま、仙石氏の転封および松平氏(藤井松平家)に藩主家が交代し、幕末を迎えた。 明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓(西櫓)が1棟残るのみであったが、昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されている。 現在は旧二の丸内が上田城跡公園になっており、毎年花見の季節になると、多くの市民や観光客で賑わう。また、敷地内には野球場、市立博物館、招魂社などが置かれている。本丸跡には真田神社がある。境内には古井戸があり、「城外への抜け穴になっていた」との伝説がある。三の丸の藩主居館跡には、松平氏時代の屋敷門と堀が残されている。同地は現在上田高校の敷地として利用され、門は学校の正門として使用されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上田城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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