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上田 朝直(うえだ ともなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏に家臣。武蔵国松山城主。 出自は武蔵七党の西党の流れを汲む上田氏の庶流。上田政広(安独斎蓮好・上野介、元亀2年(1571年)8月1日没)の子とされる。 当初は扇谷上杉家に仕えていたが同家が後北条氏に滅ぼされ、伯父・難波田憲重が戦死して松山城を奪われると、憲重の娘婿・太田資正が奪還して松山城に入った。その後、資正が太田氏宗家を継ぐために岩付城に戻ることになると縁戚である朝直に松山城を譲ることになる(資正の妻は朝直の従兄弟にあたる)が、朝直は資正から離反して後北条氏に従った。 行政手腕に優れており、北条氏康から信任を受けて独自の領国経営を許されたという。天文19年(1550年)頃に安独斎と号している。しかし、永禄2年(1559年)頃には、関東に出兵して来た長尾景虎に呼応し北条氏を離反している。永禄4年(1561年)、政虎(景虎)が関東から撤兵すると、再び北条氏に帰参を許されているが、責任を問われて本貫地であった秩父郡に移される。その後、永禄12年(1569年)に武田信玄と三増峠の戦いで戦うなど、武功を評価されて松山城主に戻され、また上田宗家を相続している。晩年は子の長則に家督を譲って隠居した。 生年には永正13年(1516年)説もある。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上田朝直」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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