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上野氏 : ミニ英和和英辞書
上野氏[うえのし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [じょう]
 (n,pref,suf) 1. first volume 2. superior quality 3. governmental 4. imperial 5. top 6. best 7. high class 8. going up 9. presenting 10. showing 1 1. aboard a ship or vehicle 12. from the standpoint of 13. as a matter of (fact) 13. superior
上野 : [うえの]
 【名詞】 1. section of Tokyo 
: [の]
 【名詞】 1. field 
: [うじ]
 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth 

上野氏 : ウィキペディア日本語版
上野氏[うえのし]

上野氏(うえのし)は、日本氏族。幾つかの流れがある。本項では清和源氏足利流上野氏について記述。ほかに清和源氏新田氏里見流上野氏武蔵七党の一派児玉党の一族有道姓上野氏信濃国木曾谷国人木曾氏流上野氏などがある。


==清和源氏足利流 上野氏嫡流==
本姓源氏家系河内源氏の流れを汲む足利氏庶流足利泰氏の六男、上野義弁に始まる。
義弁の祖父足利義氏三河守護補任を契機として、同国には足利一門の扶植がはじまり、三河における足利氏の所領のうち、八条院上野荘地頭職を得て足利一門として重きをなした。義弁の孫上野頼兼は、足利尊氏鎌倉幕府に反旗を翻し挙兵した際には従軍している。南北朝の動乱の中、尊氏は九州に落ち延び、頼兼もこれに従軍する。1336年建武3年)3月には南朝方の肥後菊池氏を討って武功を挙げた。やがて、尊氏が勢力を盛り返して京都奪還のために東上すると、石見守護に補任され、西国における北朝・幕府勢力の拡大と南朝勢力の追討に尽力している。
上野氏は佐渡守護等、数ヶ国の守護を歴任したものの、子孫代々世襲されず、京都にあって奉公衆三番頭となる一方、御部屋衆御供衆申次衆を代々務めるなど、足利将軍家の近臣として幕府の中枢の業務を担った。
足利義尚六角氏の討伐に近江に出兵、上野尚長も将軍に伴い出兵した。
足利義稙1493年明応2年)、足利義澄を擁する管領細川政元により追放されたが、1508年永正5年)、再び将軍に返り咲き、備中を固めるため1509年永正6年)、近臣の上野信孝(尚相弟)らを当国へ下した。
信孝は義稙の命を受けて二階堂政行伊勢貞信らとともに下向し、備中国下道郡下原郷鬼邑山城に入り、義稙方の拡大に奔走した。〔備中兵乱記には、「永正六年六月源義稙、天下の国主を召され、年来の軍忠を揚げられ忠賞を行われる、累年の軍労を休息致され、向後は国主にすえ置かれ、国主の仕置を探題し、地頭の行跡上聞に達せられるべしと評定あり。その節、備中の国は雲州の塩治、尼子の旗下も有り、四国の細川、三好の旗下も有り、播州の赤松旗下も有る故に国乱す。御近侍二階堂政行、上野民部大輔、伊勢左京亮備中へ差し越され、国侍を御身方に引き入れ候様にとの上意にて、上野民部大輔は下道郡下原郷鬼邑山に在城、伊勢左京亮貞信は小田郡江原村高越山に在城、二階堂政行は浅口郡片島に在城、近郷の地頭を冠職として在城、国中に制札を立て貧民に財を扶助し貧者を愛し孤独を禁ず。これ故に国民親付する事父母の如し」とある。〕その後、永正年中に信孝は鬼邑山城に一門の上野高直を入れ、隣接し一連を成す馬入堂山城には一族の白神果春を迎えて城主となし、また上野頼久をして備中松山城に封じたのをはじめ、近郷の諸城に諸将を配して自らは帰洛して再び幕府に近侍し、後年足利義晴、晩年には足利義輝の重臣を務め、1563年永禄6年)に逝去した。〔毛利家文書によれば、「永禄三年(1560年)二月十五日、幕府奉行衆上野民部大輔信孝及び佐々木民部少輔稙綱、毛利右馬頭元就と毛利備中守隆元へ足利義輝入洛につき御内書が下される旨及び御忠節之御覚悟が専一の旨通達。二月二十日、足利義輝、毛利隆元へ正親町天皇御即位費用馳走の褒美として正親町天皇より大膳大夫官途之儀通達の旨詳細は上野信孝より伝達。八月八日、上野民部大輔信孝、毛利陸奥守元就へ足利義輝への別而万端御馳走に対する褒美として錦直垂御免事につき御面目之至無比類題目の旨通達。十二月八日、足利義輝、毛利陸奥守元就と毛利大膳大夫隆元へ連々可致忠節の褒美として相伴衆に列する旨詳細は聖護院門跡と上野信孝より伝達。永禄四年(1561年)八月八日、足利義輝、毛利陸奥守元就へ相伴衆に列せられたことによる礼贈物の返しとして絵二幅及び盆一枚送付の旨詳細は上野信孝より伝達。(抄)」とある。〕
また、信孝の嫡子上野清信は、足利義昭の重臣として、歴史に名を記している。1565年永禄8年)、足利義輝が足利義栄を奉じる松永久秀三好三人衆三好義継の軍勢に討たれ、実弟の足利義昭も捕縛され幽閉されたが、義昭は義輝の側近衆に助けられて脱出し、後に越前朝倉義景のもとへ落ち着いた。その際、清信は義昭に随行し、義景に上洛の挙兵を求めたが、義景が一向に動かなかったため、1568年永禄11年)、義昭は尾張織田信長らの後ろ盾を得て上洛し、朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。清信は義昭に随行して上洛し再び幕府に近侍した。〔言継卿記によれば、「永禄十一年(1568年)十月二十日、山科言継、足利義昭へ祗候。一色式部少輔や上野中務大輔らへ知行分につき取り合わせを依頼。永禄十三年(1570年)三月三日、山科言継、三条公仲を伴って足利義昭へ祗候。御礼被参之輩は、先ず御供衆、御部屋衆、申次衆、諸大名、次に公家衆。御供衆は細川右馬頭、大館左衛門佐、大館伊与守、一色式部少輔、畠山播磨守、上野中務大輔、伊勢三郎、松永久通ら。(抄)」また、多聞院日記によれば、「永禄十二年(1569年)八月十一日、上野中務、足利義昭に遣わされて大和国春日神社へ代参。(抄)」とある。〕
なお、上野氏嫡流の当主は代々の将軍から偏諱があり、上野詮兼足利義詮から、上野満兼足利義満上野持頼(・上野持歳(もちとし)兄弟)は足利義持から、上野尚長(ひさなが)は足利義尚から、上野澄相(すみすけ)は足利義澄からそれぞれ諱の一字を授けられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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