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新田氏(にったし)は、上野国発祥の豪族(軍事貴族)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする上野源氏の総称〔新田氏を上野源氏とする。〕。義国流足利氏と同族である。上野国(群馬県)を本貫とした。家紋は「大中黒・新田一つ引(おおなかぐろ・にったひとつびき)」。 == 概要 == 開祖は河内源氏の棟梁の源義家(八幡太郎)の三男(諸説あり)源義国。義国は下野国足利荘(栃木県足利市)を本拠としていたが、足利荘は義国の次子である足利義康が継いで足利氏を名乗り、長子の新田義重は源頼信-頼義-義家-義国と伝領した河内源氏重代の拠点である摂関家領上野国八幡荘を継承〔久保田順一『中世武士選書18 新田義重 北関東の治承・寿永内乱』戎光祥出版 2013年11月1日 ISBN 978-4-86403-094-6〕し、また義国〔田中大喜「中世前期上野新田氏論」 田中 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三巻 上野新田氏』(戒光祥出版、2011年)ISBN 978-4-86403-034-2〕と義重は渡良瀬川対岸の浅間山噴火で荒廃していた上野国新田郡(群馬県太田市)を開発する。保元2年(1157年)平家方の藤原忠雅に開発地を寄進し、新田荘が立荘された。本家は鳥羽院御願寺の金剛心院、領家は藤原氏北家花山院流となる。〔金剛心院造営に深く関与をした藤原家成の娘婿藤原重家が当時の上野国司であり、忠雅自身も家成の妹の子である。〕荘官〔新田荘司〕に任ぜられた義重は新田氏を称し、新田荘と八幡荘を中心に息子たちを配して支配体制を確立するとともに、東山道・利根川という水陸交通路や凝灰岩石材の産地であった天神山一帯を掌握して経済的な基盤を固めた。 義重は周囲の藤姓足利氏や秩父党、源義賢と対立するが、甥である足利義兼や源義朝と連携し、それらに対抗する。特に義朝の長子義平に娘を娶らせるなど積極的に関係を強めている。しかし、平治の乱で義朝が没落すると平家に接近している。ちなみに、新田荘領家である藤原忠雅も平清盛に近づき太政大臣にまで昇進した公卿である。また、義重ら新田氏一族が歴代の女院の判官代や蔵人として近侍していた事も知られている。これに対して、幼くして父親を失った甥の足利義兼は八条院の蔵人となった。八条院は当時の女院の中では平氏政権と対立関係にあり、それが後の反平氏の動きに対する新田氏・足利氏の行動の差異に現れたとも考えられる〔須藤聡「平安末期清和源氏義国流の在京活動」 (初出:『群馬歴史民俗』16号(1995年)/所収: 田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三巻 上野新田氏』(戒光祥出版、2011年)ISBN 978-4-86403-034-2)〕。 1180年(治承4年)、伊豆に流罪となっていた義朝の子源頼朝、木曽では義賢の子源義仲らが京都の平氏政権に対して挙兵し、治承・寿永の乱となる。平家に属し、京に滞在していた新田義重は、頼朝討伐を命ぜられ東国に下った。義重は上野国八幡荘寺尾城に入り兵を集めながら事態を静観し、頼朝追討に加わらなかった。その後、木曽勢は上野国へ進出し、下野国足利荘を本拠とする平家方の藤原姓足利氏の足利俊綱と対立するが義重は中立を保つ。一族の中には、甥足利義兼や子山名義範、孫里見義成など、鎌倉を本拠とした頼朝のもとへ参じて挙兵に加わるものもあったが、義重自身は参陣の要請を無視し、静観していた。頼朝勢が関東地方を制圧すると、12月に義重は鎌倉へ参じる。義重は頼朝から参陣の遅さを叱責されたといわれる。その後の平家との合戦や奥州合戦にも義重が参陣したとの記録がなく、1221年の承久の乱においても惣領は参陣せず、代官として庶家の世良田氏が参陣している。そればかりか、義平の未亡人となっていた義重の娘祥寿姫を頼朝が側室にしようとしたところ、義重がそれを拒否したため頼朝から勘気を蒙ったと伝えられている(『吾妻鏡』)。 これらの経緯により、鎌倉に東国政権として成立した鎌倉幕府において、新田氏本宗家の地位は低いものとなった。新田氏本宗家は頼朝から御門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。また、早期に頼朝の下に参陣した山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになる。その後も新田氏の所領が増えることはなく、世良田氏や岩松氏の創立などの分割相続と所領の沽却により弱体化する。以後、新田一族は堀口・里見・桃井・大館・一色の5家に分かれる。 4代の新田政義は、京都大番役での上京中に幕府に無断で出家した罪で御家人役を剥奪される。新田氏惣領職は没収され、一族の新田(世良田)頼氏に与えられ、世良田氏とともに岩松氏が分担する。このとき、新田氏本宗家の所領が得宗家に渡り、得宗勢力被官が荘内に進出する。その後、頼氏が北条氏の得宗家と反得宗家の争いである二月騒動に連座して佐渡に流罪となると、惣領職が新田氏本宗家に復するものの、幕府における新田氏本宗家の地位は非常に低いものとなり、以後は無位無官に甘んずることとなる。 そのため、新田氏本宗家は、足利氏惣領の庇護下に入る事になる。元々、2代の新田義兼は娘を足利義純に嫁がせ、4代の新田政義は足利義氏の娘を妻として5代新田政氏を儲け、政氏の娘は足利家時に嫁いでいる。更に政義の失脚以後の新田氏本宗家の歴代の当主は足利氏惣領の通字であった「氏」を名前に入れている事である。これは新田氏本宗家は足利氏惣領を烏帽子親として元服し、「氏」の偏諱を与えられた事で擬制的親子関係を庇護に入ったからと考えられている。そして、足利氏惣領で「氏」を用いなかった足利高義の時代に元服したとみられる8代新田義貞の名に「氏」ではなく「義」の字が入っている事がこの事実を裏付けている。後に新田義貞が討幕の兵を挙げた時の事を「源義貞ト云者アリ。高氏ガ一族也」(『神皇正統記』)・「尊氏の末の一族新田小四郎義貞といふ物」(『増鏡』)と記しているのは、実は婚姻関係と烏帽子親を通じた擬制的親子関係の結果、足利氏庶流と化していた新田氏本宗家の実態を的確に表したものであったと言える(この傾向は里見氏や世良田氏などの新田氏一族にもみられる)〔田中大喜「中世前期上野新田氏論」 田中 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三巻 上野新田氏』(戒光祥出版、2011年)ISBN 978-4-86403-034-2〕。その一方で、義貞の時代には長楽寺再建事業を通じて、同寺の門前町で当時の地域を代表する経済都市であった世良田宿を本宗家が掌握し、後の本宗家主導の討幕運動参加の基礎が築かれる事になった〔田中大喜「〈得宗専制〉と東国御家人 -新田義貞挙兵前史-」 (初出:『地方史研究』294号(2001年)/所収: 田中 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三巻 上野新田氏』(戒光祥出版、2011年)ISBN 978-4-86403-034-2)〕。 鎌倉時代後期には、8代新田義貞が後醍醐天皇の倒幕運動に従い挙兵、源義国流の同族にして北条氏と重代の姻戚の最有力御家人足利高氏(後の尊氏)の嫡男千寿王(後の足利義詮)を加えて鎌倉を攻め、幕府を滅亡させる。当初、鎌倉幕府の冷遇によって建武政権での新田氏本宗家の権威は同族である足利氏惣領よりも格下に見られていたが、後に政権内部の政争により、義貞は長年の足利氏との関係を断ち切って反足利氏派・反武家派の首班として尊氏(高氏改め)と対立した。新田一族中でも義貞とともに上京した者と鎌倉や新田荘に残った者にわかれ、前者は主に義貞に従い、後者や山名時氏や岩松氏・大舘氏・里見氏・世良田氏・大島氏などは主として足利氏に従い北朝方となった。以後、新田氏一族は南朝方の中核を担うが楠木正成とともに戦った湊川の戦いで敗戦。比叡山での戦いの後、長男の新田義顕と共に後醍醐天皇の皇子・恒良親王を奉じて北国に拠点を移した。しかし越前国金ヶ崎城で足利方の斯波高経・高師泰らに敗れ、義顕は自決し、義貞自身も同国藤島で戦死する。 義貞の戦死後、三男新田義宗が家督を継いだ。足利家の内乱である観応の擾乱に乗じて異母兄の新田義興と共に各地を転戦、一時は義興が鎌倉の奪還を果たすが巻き返され、足利基氏・畠山国清らによって武蔵国矢口渡で謀殺されると劣勢は増すばかりとなった。義詮、基氏が相次いで没すると、義宗は越後から脇屋義治とともに挙兵するが、上野国沼田で関東管領上杉憲顕配下の軍に敗れて戦死し、新田氏本宗家は事実上滅亡した。その後も、義宗の子とする新田貞方とその子貞邦や、義宗の子とも伝わる脇屋義則などが抵抗を続けるが、鎌倉公方の軍に破れ新田氏の抵抗は収束していった。 一方、北朝方についた新田一族の岩松氏に上野国の新田荘が与えられ、義宗の落胤を称した岩松満純〔岩松満国の実子説などがあり、本当に義宗の落胤なのかは定かでない。〕が入嗣する。 室町幕府には支族である大館氏・大井田氏などが出仕し幕府高官となった。また、三河守護には大島氏が補任された。また、越後に残ったものは次第に守護上杉家の家臣に組み込まれていった。 戦国時代になると新田宗家を継承した岩松氏は重臣横瀬氏に下克上される。横瀬氏は名字を由良氏と改め、新田義宗の子・横瀬貞氏〔「新田岩松古系図」による。『系図綜覧』収録の「由良系図」では新田義顕の弟とする。〕の子孫とされているが、これといった確証がなく信憑性は薄い(横瀬氏ー由良氏は源氏ではなく小野氏であるとするのが通説である)。 岩松氏は新田荘北東部の桐生に退隠していたが、後北条氏に代わって関東に入部した徳川家康に接見する。伝来の新田氏系図を進上するよう求められたがこれを拒否し、上野国新田郡田嶋郷内120石の禄を与えられ交代寄合として存続した。また、由良氏も常陸国牛久に5400石の領地を与えられ、数流に分かれた由良氏の中の嫡流家は1000石の高家となった。 『鑁阿寺新田足利両氏系図』によると、義宗には宗親・親季という子があったといい、宗親の子孫は新田岩松氏とは別の系統として子孫を残したという。また親季は松平正義の養子となり、その子の有親と孫・親氏が三河に流れ松平氏の祖となったという。『筑後佐田新田系図』では、義顕には義一(よしかず)という子があったという。 一方、貞方の庶子貞政は武蔵国稲毛に逃れたという。この系統は堀江氏と称し、後北条氏に仕え、後に足柄方面に移住し、神奈川県伊勢原市に現存しているという〔新田堀江氏研究会編『新田堀江氏研究』東京堂出版、1982年〕。さらに、奥州に逃れた貞方のもう一人の庶子貞長の曾孫義綱(景綱)が伊達晴宗に仕えて仙台藩臣中村氏の祖となり、庶家に藤沢氏などが出た。この中村氏は宮城県に現存するという。 また、義宗の子とも伝わる新田(脇屋)義則は、母方の世良田氏も継承したといい、その子・祐義は真船村に逃れたという。この子孫は世良田氏を称したのち江戸時代に入って真船氏を称したという。〔清水昇 『消された一族-清和源氏新田氏支流・世良田氏』 あさを社、1990年。〕 高家となった由良氏、交代寄合に岩松氏ともに、徳川将軍家との親近性を示すために新田氏の末裔としての立場を強調することに努めた。一方、新井白石〔新井白石は新田義重の曾孫とされる荒井覚義(新田義房の次男)の末裔と称していた(ただし、史実かどうかは不詳)。〕や徳川吉宗も自分の先祖とされた新田氏の末裔に深い関心を示し、白石は『岩松家系附録序説』を著して岩松氏を現存する末裔の中で新田氏の嫡流に最も近い家と結論づけ、吉宗は岩松氏や由良氏、長楽寺に伝わる新田氏ゆかりの文物を拝見するなどの関心を示した。幕末に入ると、尊王論と南朝顕彰の動きの高まりによって岩松氏・由良氏とともに新田氏嫡流であることを強調するようになり、明治維新後、岩松氏、由良氏ともに新田姓に復し新田氏嫡流をめぐって争うことになる。両者の争いで一歩先手に出たのは由良新田家(旧由良氏)である。幕末期から知行地のある常陸国や新田氏の本拠地である上野国にいた新田氏あるいはその家臣の末裔と称する在地の人々と結びつき、新田(由良)貞時は新田神社創建事業においても中心的な役割を果たし、現地・上野における在地との関係を背景に岩松新田家(旧岩松氏)の関与を完全に排除することに成功した。ところが、由良新田氏家の当主の相次ぐ死去と維新後の生活難によって新田氏ゆかりの文書等の売却・散逸させてしまう。これに加えて三上参次などの歴史学者が由良氏の出自に関して疑問が出されるなど、逆境に追い込まれてしまう〔山澤学「新田源氏言説の構造」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年) ISBN 978-4-7842-1620-8 〕。これに対して岩松新田家は明治政府から維新の時の新田勤皇党の功績や歴史学における評価を認められて嫡流とされ男爵に叙された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新田氏」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nitta clan 」があります。 スポンサード リンク
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