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上野 義秋(うえの よしあき、1920年12月11日 - )は、福岡県出身のプロ野球選手(捕手、一塁手、外野手)。 == 来歴・人物 == 福岡工業(現・福岡県立福岡工業高等学校)在学中には、甲子園に5回(春2回〈1937年,1938年〉、夏3回〈1937年,1938年,1939年〉)出場〔出身校・都道府県別プロ野球選手リスト(西日本編) 〕〔5大会以上甲子園に出場した選手(ベンチ入りも含む)(野球回廊のページ) ※5回出場の欄に、上野義秋の名がある。〕。最高成績は1939年夏のベスト8(それ以外の大会は、全て初戦負け)だが、同校の甲子園初出場及び黄金時代(福岡工は2014年春終了現在、春5回,夏4回出場しているが、上野がいた時代に春2回,夏3回出場。)に貢献した。福岡工時代のチームメイトに、大崎憲司,千頭久米夫,伴勇資(いずれも後に、西日本鉄道硬式野球部及び西鉄でもチームメイトになる。)がいる。 3月15日に名古屋金鯱軍に入団〔名古屋金鯱軍登録選手(1940年・野球回廊のHP) 〕。翌日の開幕戦・南海戦(甲子園球場)に「7番・一塁手」で先発出場した〔。持ち前のシェアな打撃と選球眼の良さでレギュラーに定着し、一塁手の他には捕手,外野手(左翼手、中堅手、右翼手全てで試合出場経験あり)を守ったユーティリティープレイヤーでもあった。 に金鯱軍は翼軍と対等合併して大洋軍となり、上野もメンバーとして登録されるが、試合出場はなかった〔職業野球!実況中継(15年 金鯱vs巨人 11回戦) 〕。6年のブランクがあることから、応召された可能性が高い〔が、詳細は不明である。 に現役復帰。この年創設された、西日本鉄道硬式野球部に所属して戦後のスタートを切った。翌の第19回都市対抗野球大会では、「3番・一塁手」としてチームの優勝に貢献〔。この時のチームメイトには、先述の大崎,千頭,伴の他に、武末悉昌投手・宮崎要監督兼二塁手・深見安博三塁手・塚本悦郎中堅手がおり、後に西鉄の草創期を形成するメンバーとなった。にこの年新設された 西鉄クリッパースに入団し、プロ野球界に復帰した。俊足を活かし、主に1番や2番、9番打者で活躍〔1950年西鉄・スタメンアーカイブ 〕して、16盗塁をマークした。しかし、シーズン終盤に故障して、翌には僅か1試合出場に終わると、に広島カープに移籍して、この年限りで現役を引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上野義秋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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