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下出 義雄(しもいで よしお、1890年(明治23年)5月12日 - 1958年(昭和33年)1月20日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家、教育者、政治家。 実業家で貴族院議員も務めた下出民義の長男。父の事業を継ぎ名古屋財界にて活動し、大同製鋼(現・大同特殊鋼)社長、名古屋証券取引所理事長などを務める。事業界での活動の傍ら学校経営にも携わったほか、1942年(昭和17年)から1期のみ衆議院議員も務めた。 == 経歴 == === 生い立ち === 下出義雄は1890年(明治23年)5月12日、下出民義の長男として大阪市に生まれた〔『下出民義自伝』、22-23頁他〕。母あいは、父民義とともに大阪市の石炭商社に参加していた大阪安治川の石炭商西井直次郎の妹である〔。父民義は1889年に大阪から愛知県へと移り、名古屋市近郊の熱田町にて石炭商として開業していたが、母は郷里の大阪へと帰って義雄を出産した〔。母が産褥熱で倒れたため堺市にあった民義の姉の元で養われ、9月になって父のいる熱田へと移った〔。 1902年(明治35年)4月愛知県立第一中学校(愛知一中)へ入学。1908年(明治41年)に卒業して神戸高等商業学校へ進み、1913年(大正2年)同校卒業の後は東京高等商業学校専攻科(経済史専攻、現・一橋大学)へ進学、1915年(大正4年)、26歳のとき卒業した〔「下出義雄氏の略歴」(『東邦学園下出文庫目録』409-410頁)〕。東京高商では教授の福田徳三から研究室に残って学者になるよう誘われたという〔『中部財界人物我観』、83-98頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「下出義雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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