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下坂 藤太郎(しもざか とうたろう、1868年11月17日(明治元年10月4日) - 1941年(昭和16年)1月12日)は、日本の大蔵官僚、実業家。理財局銀行課長を最後に退官し、台湾銀行理事、副頭取を歴任。東洋製糖(のち大日本製糖)、東洋海上保険(のち日新火災海上保険)、日商(のち日商岩井)の各社長。 == 生涯 == ; 略歴 会津藩士下坂藤次郎の長男。三春中学、第一高等学校を経て、1894年(明治27年)東京帝国大学を卒業。大蔵省に入省し、翌年の第二回文官高等試験に次席合格する〔『戦前日本官僚制の制度・組織・人事』447頁〕。秋田県収税長、本省参事官、書記官、監督局銀行課長などを経て、1899年(明治32年)6月辞職。翌月台湾銀行理事に就任し、副頭取に進む。1906年(明治39年)から翌年にかけて銀行制度調査のため欧米出張〔『台湾銀子四十年誌』画像271枚目〕。1912年(明治45年)東洋製糖専務、1914年(大正3年)7月から同社社長。東洋海上保険社長を兼務し、1922年(大正11年)7月に両社長職から離任する〔離任の理由について新聞は鈴木商店の経営監視にあたるためと報じている(『国民新聞 1935.2.5-1935.2.22(昭和10) 』神戸大学電子図書館)〕。1928年(昭和3年)、日商岩井の前身である日商の初代社長に就任〔『日新火災八十年のあゆみ』237頁〕。同社会長も務めた。 ; 鈴木商店、東洋海上、日商 鈴木商店系列の東洋製糖社長であった下坂と台湾銀行監査役の辰野宗義(後述)は、経営危機に陥った東海商業銀行から東洋海上の株式を引き受ける。辰野は鈴木商店と親しい関係にあった〔『日新火災八十年のあゆみ』35頁〕。下坂、辰野らの株式引き受けを契機に鈴木商店は東洋海上の株式の過半数を取得し、下坂は同社の社長となる。当時の東洋海上は損失約40万円を抱えていたため、対策として減資による損失整理を行い、次いで増資を行い業績は回復する。東洋海上は海上保険、火災保険、運送保険と業務を拡大するが、鈴木商店が破綻すると東京海上系列となる〔『日新火災八十年のあゆみ』36頁〕。先の増資の際、その三分の一を引き受けたのが東京海上であった。下坂は同店破綻後に鈴木本家の女婿高畑誠一らの依頼で日商の初代社長に就任した〔『日新火災八十年のあゆみ』152頁-153頁〕。日商は戦後に岩井産業と合併して日商岩井(現双日)となり、高畑は社長に就任する。 ; 親族 下坂の長男源太郎は立教大学教授、弟で田村家の養子となった藤四郎は河合楽器代表取締役など複数の企業で役員を務めた実業家〔『大衆人事録 東京篇』「田村藤四郎」〕、また八郎も日商ほかの役員を務める〔『大衆人事録 東京篇』「下坂八郎」〕。妹は海軍軍医に〔人事2止 (13) 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06091337400、明治34年 公文備考 人事2止巻20(防衛省防衛研究所)」〕、長女美知子は東京帝国大学法学部教授神川彦松〔『人事興信録』「下坂藤太郎」)〕に、四女富美は東京商大学長や閣僚を歴任した高瀬荘太郎に嫁ぐ〔『大衆人事録 東京篇』「高瀬荘太郎」〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「下坂藤太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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