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下妻城(しもつまじょう)は、常陸国関郡下妻荘(現在の茨城県下妻市)にあった日本の城。多賀谷氏の居城であったことから多賀谷城(たがやじょう)とも称し、地元では一般にこの名称を用いている〔茨城城郭研究会 編(2006):174ページ〕。 城郭は広大で旧真壁郡下妻町の領域がすっぽりと収まるほどであった〔下妻市史編さん委員会 編(1993):389ページ〕。1950年代までは曲輪・濠・土塁跡が残っていたとされるが、1961年(昭和36年)に始まった都市計画事業を経て、現在では多賀谷城跡公園内にわずかに痕跡を残すのみとなっている〔。 == 概要 == 城が完成した15世紀中頃は東西両館からなり、東館を本丸とする2廓の単純な構造であった〔茨城城郭研究会 編(2006):171ページ〕。その後多賀谷氏の勢力拡大に伴い城を北方向へ拡張していき、多賀谷氏7代の重経の頃(16世紀末から17世紀初頭)には南北1.5kmにおよぶ長大な城域を有するようになっていた〔所ほか 編(1995):138ページ〕。この時代の下妻は常陸国西部最大の都市であり、城郭・城下町の規模や充実度の面で常陸国屈指の存在であった〔。 城跡は下妻市指定遺跡となっており、カワラケ(素焼きの陶器)が出土している〔下妻市ふるさと博物館(2002):18ページ〕。付近には本城・新屋敷・本宿・上宿・陣屋など城や城下町の名残が偲ばれる地名が残るが、宅地化の進行により、その遺構の一部は失われている〔。また下妻市役所の西に城跡公園がある〔いばらきの川紀行編集委員会(2005):175ページ〕。城跡公園は1961年(昭和36年)からの都市計画事業により建設され、市民憩いの場となっている〔茨城地方史研究会 編(1989):265ページ〕。ここには1890年(明治23年)12月に建立された碑があり、表面に多賀谷氏7代140年の経歴が漢文で刻まれ、裏面に碑の建立費用を負担した旧臣の子孫264名の氏名が彫られている〔茨城地方史研究会 編(1989):266ページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「下妻城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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