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下斗米将真 : ミニ英和和英辞書
下斗米将真[した, もと]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [した, もと]
 (adv) under (esp. influence or guidance)
: [ます, と]
 【名詞】 1. (1) measure 2. unit of volume ( 1. 8l) 3. (2) square container, e.g., a box 4. (3) square on a grid 5. cell of a grid
: [こめ]
 【名詞】 1. uncooked rice 
: [しょう]
 【名詞】 1. commander 2. general 3. leader 
: [まこと, しん, ま]
  1. (adj-na,n) (1) truth 2. reality 3. genuineness

下斗米将真 ( リダイレクト:相馬大作事件 ) : ウィキペディア日本語版
相馬大作事件[そうまだいさくじけん]
相馬大作事件(そうまだいさくじけん)とは、文政4年4月23日1821年5月24日)に、南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲ったテロ事件・暗殺未遂事件。
秀之進の用いた別名である相馬大作が事件名の由来である。杜撰な計画と、事件前に裏切った仲間の密告により、津軽寧親の暗殺に失敗したため、秀之進は南部藩を出奔した。後に秀之進は幕府に捕らえられ、獄門の刑を受けた。
== 経緯 ==

===事件の背景===
弘前藩主・津軽氏盛岡藩主・南部氏の確執は、戦国時代の末期から安土桃山時代、弘前藩初代藩主である大浦為信(後に津軽為信)の時代に端を発する。もともと大浦氏は、盛岡藩主となった三戸氏(三戸南部氏。南部氏の宗家。)と同じく、南部氏の一族だった。この大浦氏に久慈氏(南部氏の庶流とされる)から養子に入った大浦為信は、1571年(元亀2年)に挙兵し、同じ南部一族を攻撃して、津軽地方外ヶ浜地方および糠部の一部を支配した。さらに大浦為信は、1590年(天正18年)、豊臣秀吉小田原征伐に際して、当時の三戸南部氏当主・南部信直に先駆けて参陣し、所領を安堵されて正式に大名となった。このような経緯から、盛岡藩主・南部氏は弘前藩主・津軽氏に対して遺恨の念を抱いていた。ただ、津軽氏側は南部氏とは異なる出自であることを主張していた。
1714年(正徳4年)には、両藩の間で檜山騒動と呼ばれる境界線紛議が起きた。これは、陸奥国糠部郡野辺地(現・青森県上北郡野辺地町)西方の烏帽子岳(719.6m)周辺地の帰属に関して両藩が争った問題である。弘前藩は既成事実を積み重ね、文書類などの証拠を整備して、一件を仲裁する幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はこれに上手く対応できなかったため、この地域は幕府により弘前藩の帰属と裁定された。この処置は盛岡藩に不満をもたらした。なお、この一件は相馬大作事件の107年も前の出来事である。
事件の前年の1820年(文政3年)には、盛岡藩主・南部利敬従四位下)が39歳の若さで死亡(弘前藩への積年の恨みで悶死したと伝わる)。利敬の養子・南部利用が14歳で藩主となるが、若さゆえにいまだ無位無官であった。同じ頃、弘前藩主・津軽寧親は、ロシアの南下に対応するために幕府から北方警備を命じられ、従四位下に叙任された(従来は従五位下)。また、高直し(藩石高の再検討)により、弘前藩は表高10万となり、盛岡藩8万石を超えた。盛岡藩としては、主家の家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が、上の地位となったことに納得できなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「相馬大作事件」の詳細全文を読む




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