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下村 努(しもむら つとむ、1964年10月23日〔 - )は、物理学者、コンピュータセキュリティの専門家。アメリカのカリフォルニア州在住〔「「ノーベル化学賞」下村名誉教授の「息子」は父親より有名だった」『週刊新潮』2008年10月23日号、57-58頁。〕。ケビン・ミトニックの逮捕に協力した〔〔「米で「史上最悪」のハッカー逮捕 防御プロの挑戦が裏目 日本人青年怒りの追跡」『読売新聞』、1995年2月18日、東京朝刊4頁。〕。アメリカ国籍〔Tsutomu Shimomura 〕。 == 略歴 == 愛知県名古屋市生まれ〔『テイクダウン』上巻97頁。〕。父は、2008年にノーベル化学賞を受賞した生物発光研究者の下村脩。1歳で両親と共に渡米〔、プリンストン(ニュージャージー州)で育つ〔『テイクダウン』上巻98頁。〕。10歳頃から、平均15歳位の子供達から成るコンピュータ・クラブに参加し、プリンストン大学工学部にあるコンピュータの操作にのめり込む。飛び級を重ね、中学を卒業しないまま〔『テイクダウン』上巻110頁。〕12歳頃には高校に上がる。この頃は両親との関係が芳しくなく、家より大学にいる時間が長かったという〔『テイクダウン』上巻100-101頁。〕。さまざまな学問に触れ、物理学と生物学とに惹かれる〔『テイクダウン』上巻107頁。〕中、15歳の時に、下村はそのコンピュータに関する能力を買われてプリンストン大学の天文学部で計算担当を務めるようになり、のちにアルバイトとして学部に雇われた〔『テイクダウン』上巻108-109頁。〕。しかし通っていたプリンストン高校では、成績が優れなかったこと、授業態度が教師に疎んじられたこと等により、3年生で放校となる〔『テイクダウン』上巻110-113頁によると、下村は学校の成績は伸び悩み、合格点を得た科目はその後出席しなくなるなど、学校に疎まれる行動が多かった。また「テロリスト」と呼ばれしばしば停学処分をされる友人とは仲良くしており、彼のひどい悪戯による備品破壊行為を教師が下村のやったことと決めつけることもあった。下村が3年生の時、両親宛に学校から3通の手紙が届いた。そのうちの2通は下村が数学と物理の地元コンテストで勝ったことを、1通はプリンストン・ハイスクールから放校となったことを伝える通知だったという。〕。 1982年、17歳でカリフォルニア工科大学に入学〔『テイクダウン』上巻114頁。〕。大学時代には高名な物理学者リチャード・P・ファインマンのもとで2年間学んでいた〔。しかし大学を中退し、1984年末、19歳の時にロスアラモス国立研究所へ移り、と共にラチス・ガス・オートメタ・モデルの基本理論を研究する〔『テイクダウン』上巻125-130頁。〕。1986年よりロスアラモス国立研究所のコンピュータ部門において6年間、ハッカー対策のプログラミングに従事〔。また、物理学の研究者として現場での教育を行うこととなった。 下村は1995年頃はUCSDのサンディエゴ・スーパーコンピュータ・センターにおいて主席特別研究員を務めていた。ただし、『週刊新潮』が2008年10月に下村の母に取材した記事によると、両親は、下村からの連絡があまりないことから、彼が企業勤めなのか大学で研究しているかを知らないという。また下村がコンピュータセキュリティに従事していることも著作『Takedown』が出るまで知らなかったという〔。両親は、彼がアルカイダの標的になることを非常に恐れていた。そのため、親族にさえも彼の仕事と住所を公表していない。父親の下村脩が、朝日新聞の朝日賞を受賞した際には、当時婚約者だった夫人と、その家族と一緒に来日している。 2008年、父がノーベル賞を受賞した際は、下村は直ちにEメールを送り、家族はこれを喜んだ〔。なお父のノーベル賞授賞式典には家族として出席し公の場に姿を見せ、家族一緒の撮影にも応じている〔(写真・解説あり)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「下村努」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tsutomu Shimomura 」があります。 スポンサード リンク
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