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下条 信氏(しもじょう のぶうじ、享禄2年(1529年) - 天正10年6月25日(1582年7月14日))は、戦国時代の武将。下条は下條とも書く。父は下条時氏。信濃小笠原氏、のち甲斐武田氏の家臣であり、武田晴信(信玄)の義兄弟、信濃吉岡城(伊那城とも)主である。兵庫助、伊豆守。正室は武田信虎の娘。子は信正、頼安。 == 略歴 == 下条氏は甲斐国巨摩郡下条(韮崎市下条西割)から興った武田氏の庶流とも言われているが、室町時代中期に小笠原氏から養子が入り、信濃伊那郡へ入国したという。 信濃国守護である小笠原氏に仕え、天文年間に本格化した武田氏の信濃侵攻においても反武田勢に加わっている。天文23年(1554年)8月の鈴岡城攻略前後に武田方に服従し、知久氏領を与えられている。弘治元年(1555年)、時氏の死去により家督を継承する。 信氏は秋山虎繁(信友)配下となり、『甲陽軍鑑』では信濃先方衆に含まれている。武田晴信(信玄)からは重用され、その妹を正室に与えられる。晴信の「信」を与えられて信氏と改名し(「武田氏系図」による)、『下条記』では信氏ら下伊那衆は山県昌景の相備衆(与力)に任じられた。 以後は史料に名が見られないが、弘治3年(1557年)の三河武節城攻め、永禄4年(1561年)の川中島の戦いに参戦している。『下条記』によれば、元亀2年(1571年)4月には秋山に従い三河攻めに参加し、足助城番を務め、元亀3年(1572年)から天正3年(1575年)8月まで美濃岩村城番を務めている。 天正10年(1582年)2月、織田信長による甲州征伐が始まると、子息の信正とともに滝沢要害(長野県下伊那郡平谷村)において織田勢を迎撃した。『信長公記』『甲乱記』によれば織田氏に降伏した一族・家臣の下条氏長(九兵衛尉)、熊谷玄蕃、原民部らの謀反により退去したという。信氏は信正とともに三河国黒瀬(愛知県新城市)に潜伏する。同年3月22日には信正が死去し、信氏も遠江国宮脇(静岡県掛川市)に移るが、6月25日に同所で死去した。享年54。 天正壬午の乱において、徳川家康の後援を受けた信氏の次男・頼安(兵庫助)と信正の子・牛千代(康長)が、毛利長秀が撤退した後の飯田城に入った氏長を暗殺して下条氏を継承した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「下条信氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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