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下田光平 : ミニ英和和英辞書
下田光平[しもだ こうへい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [した, もと]
 (adv) under (esp. influence or guidance)
下田 : [げでん, しもだ]
 (n) worn-out rice land
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ひかり]
 【名詞】 1. light 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

下田光平 : ウィキペディア日本語版
下田光平[しもだ こうへい]

下田 光平(しもだ こうへい、1989年4月8日 - )は、秋田県秋田市出身のサッカー選手。ポジションは主にミッドフィールダー(MF)。
== 来歴 ==
小学校3年生時に〔注目選手紹介 下田光平 / MF 秋田商 (秋田) 大ケガから復活した強気なU18日本代表ボランチ 日刊スポーツ〕地元・秋田のスポーツ少年団でサッカーを始め、中学生時に所属したFCあきたでボランチに転向。3年生時に高円宮杯全国大会に出場。秋田商高在学時には、恵まれた体格に身体能力と当たりの強さを備え、ダイナミックなプレーぶりから「みちのく稲本」と呼ばれていた〔 スポーツ報知 (2007年7月29日)〕。
2008年名古屋などとの争奪を経て〔 東京中日スポーツ (2007年11月14日)〕FC東京へ入団〔 FC東京 (2007年11月14日)〕。入団会見では「目標とする選手は今野泰幸」とコメント〔 東京中日スポーツ、2007.11.15〕。同年の公式戦出場機会は掴めなかったが、また、U-19日本代表メンバーに定着し同年開催のAFC U-19選手権に出場〔U-19日本代表 AFC U-19選手権サウジアラビア2008 (10/23-11/16)メンバー 日本サッカー協会 (2008年10月20日)〕。U-19サウジアラビア戦ではMF香川真司とのドイスボランチを構成した〔U-19選手権 日本vs.サウジアラビア-2 ゲキサカ (2008年11月4日)〕。
2009年1月には各クラブで出番に恵まれない選手で構成されたU-20日本代表に選出され、カタール国際ユーストーナメントに出場。同年5月末、下田を「守備の強い、90分走ることができるタフな選手」と評価していた木山隆之【J2:第18節 水戸 vs 仙台】木山隆之監督(水戸)記者会見コメント J's GOAL、2009.05.30〕が指揮を執るJ2水戸ホーリーホックへの期限付き移籍が発表されると〔 FC東京 (2009年5月27日)〕〔 水戸ホーリーホック (2009年5月27日)〕、そのわずか3日後の同月30日に行なわれたJ2第18節・対仙台戦で早速先発で起用され公式戦デビューを果たす。が、同年9月のJ2第38節横浜FC戦で左膝前十字靱帯を損傷。全治半年以上の診断を受け戦線を離脱〔 水戸ホーリーホック (2009年9月25日)〕。
2010年も移籍期間を延長し〔下田光平選手 期限付き移籍延長のお知らせ FC東京 (2010年1月8日)〕〔 水戸ホーリーホック (2010年1月8日)〕、同年5月のJ2第13節熊本戦で復帰。ボールホルダーへの厳しいチェックを見せた〔【J2:第13節 水戸 vs 熊本】木山隆之監督(水戸)記者会見コメント J's GOAL、2010.5.15〕。当時の水戸はドイスボランチの両方に攻撃的な選手を起用しており、下田に多くの出場機会が与えられることはなかったが、シーズン終盤のJ2第34節札幌戦からはレギュラーに固定。チームメートのDF大和田真史から「人に強いし、ボールを取るのもうまい」と評された〔 エル・ゴラッソweb版 BLOGOLA、2010.11.18〕守備力を発揮し、木山からも「いい位置取りで(相手の)攻撃の芽を摘んで、攻撃の起点にもなっていた」〔【J2:第34節 水戸 vs 札幌】木山隆之監督(水戸)記者会見コメント J's GOAL、2010.11.14〕などと賛辞され、守備で貢献するボランチとして存在感を示した。
2011年は移籍期間を満了し〔 水戸ホーリーホック (2010年12月4日)〕 FC東京へ復帰。同年はMF高橋秀人アンカーのポジションで定着したため出場機会は限られたが、高橋が出場停止となったJ2第34節湘南戦でFC東京での初先発を果たし〔選手出場記録 FC東京 2011Jリーグ ディビジョン2 Jリーグ 2011.12.03〕、猛烈なプレスで相手のパスの出所を塞ぎ、広範囲をカバーする守備意識の高さで穴を埋めた〔FC東京、意識改革が導いたJ1昇格 まさかの降格から1年、再び最高の舞台へ スポーツナビ (2011年11月21日)〕。
2012年3月にFC町田ゼルビアへ期限付き移籍〔下田光平選手 FC町田ゼルビアへ期限付き移籍のお知らせ FC東京 (2012年3月18日)〕〔下田光平選手 FC東京より期限付き移籍のお知らせ FC町田ゼルビア (2012年3月18日)〕。登録後すぐに先発出場を続けるようになり、J2第9節甲府戦でプロ入り後初得点を挙げた〔選手出場記録 Jリーグ (2012年11月11日)〕。しかし持ち前のボール奪取で激しいプレーを続けたことによる代償か〔V長崎、新戦力 MF下田光平 47NEWS (2013年2月6日)〕、町田でも負傷による長期離脱を余儀なくされた〔下田光平選手の負傷について FC町田ゼルビア 2012.05.22〕。シーズン終盤に復帰するも〔[町田]長期離脱していた下田選手が全体練習に復帰!「一つの駒としてチームに貢献できるように」 blogola 2012.09.12〕、移籍期間満了により同年限りで退団〔下田光平選手の契約に関しまして FC町田ゼルビア (2012年12月6日)〕。
2013年からV・ファーレン長崎へ完全移籍〔下田光平選手V・ファーレン長崎へ完全移籍のお知らせ FC東京 (2012年12月28日)〕〔 V・ファーレン長崎 (2012年12月28日)〕。長崎では、ストッパーとして3バックの一角に配された。同年4月のJ2第9節熊本戦ではプレーとは無関係に相手選手に対し頭突きをしたことが「乱暴な行為」に相当すると判定され、1試合の出場停止処分を科された〔2013Jリーグ J2リーグ戦 第8節 退場に伴う下田光平選手(長崎)の出場停止処分について Jリーグ (2013年4月15日)〕。2014年にかけて雑なプレーを減らし成長を見せたが 同年限りで長崎との契約を満了〔契約満了選手のお知らせ V・ファーレン長崎 (2014年11月27日)〕。
2015年より地元のブラウブリッツ秋田に完全移籍〔下田光平選手、V・ファーレン長崎より完全移籍のお知らせ - 2015年1月9日 ブラウブリッツ秋田公式HP〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「下田光平」の詳細全文を読む




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