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下田 菊太郎(しもだ きくたろう、慶応2年5月2日(1866年6月14日) - 昭和6年(1931年)12月26日)は、日本の建築家。秋田県出身。 アメリカ合衆国の建築設計事務所での勤務後、横浜に建築事務所を開設した。昭和初期の官庁建築等に広く用いられた帝冠様式を初めて提案したことでも知られる。当時の建築界では異色の存在で、自ら「建築界の黒羊」と称した。 == 経歴 == 1866年、佐竹藩士下田順忠の次男として、秋田県角館町(現仙北市)に生まれた。後、1883年に工部大学校を受験、受験生1,000名以上、合格50名中、47位で合格。予科に入学した。1885年(明治19年)工部大学校造家学科進学。同期に横河民輔がいる。 イギリス留学帰国直後の辰野金吾の講義に物足りなかった下田は、フランス派ゆえに主流派となれず文部省にいた山口半六の教えも受けていた。また、「欧米の建築一般」を翻訳したり、正則英語学校で語学を教えたりもしている。1889年に父の急死もあり、陸軍の貸費生になる。 またしだいに進化論など生物学方面に関心が傾き、大学校の講義に興味を示さなくなる。このため1889年、卒業間近にして担当教授の辰野金吾とそりが合わなくなり、卒業制作の相談等に支障が生じ、その結果大学校を中退した。文部省営繕課技術長であった山口の好意により、文部省営繕課に雇われる。また「欧米建築一般」という住宅の紹介書を出版。この原稿料と父の遺産とを家族の生活費とし、他に錦城学校や別荘などの設計監理で資金を得て渡米する。 1889年にアメリカに渡り、ニューヨークの建築家ページ・ブラウン建築設計事務所に就職。1892年シカゴ万国博覧会 (1893年)カリフォルニア館コンペに下田は個人で応募し落選するが、ブラウンが当選し、現場管理副主任としてシカゴへ赴任、実績をあげる。カリフォルニア州のパビリオンの現場監理を任されたとき、万博工事総監督のダニエル・バーナムに師事し、鋼骨建築法を学ぶ。同年誕生日に米国にアメリカ国籍を取得、アメリカ人と結婚した。鋼骨建築の研究をさらに希望しバーナムの事務所へ移籍、アライアンスビルなど鋼骨建築の設計に従事する機会に恵まれる。 1895年にシカゴに建築設計事務所を設立して独立し、米国免許建築家試験に合格した。短期間だがフランク・ロイド・ライトの下で働いたこともあるという。1896年(明治29年)、片山東熊が東宮御所(赤坂離宮)造営技監として訪米した際、バーナムを片山に紹介。この紹介の労に対し宮内省から明治42年、金500円下賜される。 1898年に帰国し、東京に事務所を開設し、低廉鋼鉄建築法を普及しようと事務所を開設するが、かつての師辰野金吾の妨害にあい、1901年に横浜市に横浜に外国人専門の設計施工業会社を営む下田築造合資会社を開設した。その間アメリカで身に着けた語学力で、横浜の外国人社会とも交流した。なお、東京帝国大学に「鉄骨構造」の講義がようやく開始されるのは1903年である。講師は下田と同期生横河民輔であった。 1909年(明治42年)事業挽回を期し東洋一の商業地上海に家族と移り住んで当地で活動を展開、国際派の建築家として活動した。 トアホテルでホテル建築の実績をあげた下田に1911年に帝国ホテル支配人から書面にて帝国ホテルの設計依頼があり、これを受ける。略設計2案を携え帰朝、その意匠は欧米の模倣を避け大ホテルの屋根型折衷併合式を採用。後にフランク・ロイド・ライトに設計者が変更された。ライトの設計内容を知った下田は盗作と主張し、帝国ホテルに抗議を行った。この著作権をめぐって7~8年争い、下田の相当な要求を、ホテル重役が了承し解決をみる。 1916年(大正5年)、太平洋学術会議に参加し、耐震構造に関し、内藤多仲らと討論。1918年(大正7年)再度渡米。鉄銅時価が暴落し、議院建築、博物館、図書館の建築研究を行い資料を集める。1919年帰国。 1918年に帝国議会の設計競技が行われる。1919年、青山憲法記念館に陳列された議院建築懸賞当選図案を下田は欧米型3、4等流の直写的模倣と批判、当選案にも大きな不満を持ち、洋風建築の上に日本式の瓦屋根を載せる帝冠併合式(後に帝冠様式と呼ばれる)を提案した。 1920年、帝冠併合式意匠の主張を活版小冊子を作って友人や主宰当局や議員らに配布。1920年・1922年の議会で設計変更の請願が採択されたが、建築界からはほとんど無視された。意匠変更請願は建築当局も採用せず、下田は繰り返し反論を展開、執拗に変更を迫った。 その後帝冠併合式の様式は九段軍人会館コンペ当選案や、神奈川県庁舎などで、下田の主張する帝冠様式の範時に属するものが出現していく。 1926年、スイス・ジュネーブ国際連盟会館コンペに応募し落選する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「下田菊太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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