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下鴨本通(しもがもほんどおり)は京都市の南北の主要な通りの一つ。 左京区下鴨の中央を南北に貫き、南は賀茂川に架かる葵橋を介してそのまま河原町通に続く。 同じく下鴨を南北に貫く下鴨東通・下鴨中通・下鴨西通と異なり4車線と広く直線的である。現在の経路が完成するまでは西隣の下鴨中通が下鴨本通と呼ばれていた〔沖中・福田『京都市電が走った街』40頁〕。 ==歴史== 深泥池に至る道であることから、古くは「深泥道(みぞろみち)」と呼ばれる1.5間ほどの狭い通りであったが、1919年(大正8年)に京都市から12間に拡張する計画が提示された。この計画は、下鴨神社の社家町を貫くものであったことから、住民から見直しを求める反対運動が起きたが、1922年(大正11年)、当初の計画どおり進められることになった。 しかしこの拡張を含む市街幹線道路の整備は財政難により思わしく進捗せず、京都市は1926年(大正15年)に、外郭道路(北大路通・西大路通・九条通など)の整備をその沿道の区画整理事業と同時に行うことに変更した。 こうした中、積極的に土地区画整理組合を結成することにより、京都市との交渉を円滑に進めることを企図して、「下鴨土地区画整理組合」が設立され、区画整理事業が行われることになった。この区画整理事業は1932年(昭和7年)に完成した。一方、疏水分線から北では「洛北土地区画整理組合」により区画整理事業が行われ、1930年(昭和5年)に完成した。 これらの土地区画整理により、北大路通周辺についての拡幅が完了したが、これより南も含めたすべての拡幅の完了したのは、1942年(昭和17年)のことである。 北大路通(バス停で洛北高校前(当時のバス停は市電洛北高校前、電停は洛北高校前)、交差点では下鴨本通北大路)から南は京都市電下鴨線が1956年(昭和31年)から1978年(昭和53年)まで走っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「下鴨本通」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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