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不満の冬(ふまんのふゆ、英語:Winter of Discontent)とは、1978年から1979年にかけてのイギリスの冬のことを指している。その期間に公共団体の労働組合がより大規模な昇給を求め、広い地域でのストライキがあった。ストライキはジェームズ・キャラハン率いる労働党がインフレーション(以下ではインフレと省略)抑制を目的に労働組合会議に対立して行った継続的な給与の上限設定に伴って発生したものである。ストライキのあったその冬は当時までの16年間で最も厳しいものであった。 ストライキは労働党政府が公共団体に対し、インフレを抑制し民間団体への見せしめとする目的で昇給は5パーセント以内に維持するという規則を課すことで、労働組合との社会的な契約から強制的に離脱し、インフレを抑制しようとした企ての結果である。しかしながら複数の被雇用者の組合が相互に交渉を行い、雇用者と政府の決定を上回る上限で合意した。〔 On This Day: 1979: Early election as Callaghan defeated , BBC. Retrieved 17 December 2007〕 1979年の2月までにはストライキの大半は終了していたが、政府がもっと早期にストライキを収束できなかったことは1979年の下院議員選挙におけるマーガレット・サッチャーの保守党の勝利と労働組合の権限を抑制する法律制定への流れを助長した。公共団体の雇用者によるストライキの動きはリヴァプールやテームサイドで働く墓掘り人夫による非公式なストライキや、ゴミ収集業者によるストライキを含んでいた。加えて、NHS(国民保健サービス)の補助業者は病院の入り口を封鎖するためにピケラインを形成した。その結果、多くの病院が救急の患者のみの受け入れに限ることとなった。〔 「我らの不満の冬がようやく去り、ヨーク家の太陽エドワードによって栄光の夏がやってきた。わが一族の上に不機嫌な顔を見せていた暗雲も、今は大海の底深く飲み込まれたか影さえない・・・・・・。」〔1983年出版の小田島雄志訳シェークスピア全集(白水社)から〕というウィリアム・シェイクスピアの『リチャード三世』における冒頭の台詞に由来する。そしてこの表現を、その冬の出来事に最初に当てはめたのはIDS(収入データ報告)で書記をしていた記者のロビン・チャターだった。「不満の冬」は後にジェームズ・キャラハンの演説においても用いられ、『ザ・サン』も含むタブロイド(大衆紙の一種)がこの危機的状況を定義する際にも援用された。 1979年の早い頃から天候は猛吹雪と豪雪を伴い、とても厳しいものとなった。その冬は1962年から1963年の冬以来、最も寒い冬であった。その結果、複数の職種が営業不可能になり、消費が減少して、経済が悪化した。 == 背景 == 1969年に労働党の政治家ジェームズ・キャラハンは内閣の反動を率いた。その結果、「紛争の場において」と称するバーバラカッスル白書において、その概要が示されていた労働組合の改革の提案が破棄につながった。もし、カッスル白書が履行されていたならば、不満の冬の期間における活動の大半は違法になっていたであろう。 ハロルド・ウィルソンとキャラハンによる労働党政府は1972年に始まったインフレに対する戦いを、1974年の2月に当選するまで続けていた。インフレは1974年から1975年の8月にかけて26.9パーセントと最も悪化した。しかし、財政上の責務を市場に説明する一方で、彼らは大規模な失業の増加をなくすことを望んだ。 インフレを抑制する企画の一部として、政府は労働組合大会との「社会的な契約」に合意した。その契約は労働者への昇給を政府が定めた上限以下に押さえる自主的な収入政策を考慮するものだった。前政府は議会の立法に依る収入政策を行った。しかし、このようなことは今後生じないだろうと、社会的に合意がなされた。〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「不満の冬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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