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世尊寺 行尹(せそんじ ゆきただ、弘安9年(1286年) - 正平5年/貞和6年1月14日(1350年2月21日))は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての公卿、能書家。従二位・経尹の第4子〔渡部清 p.127〕で、世尊寺家第12代当主となり、官位は従三位・宮内卿に至る。後世、藤原行成・世尊寺行能とともに世尊寺流の三筆と称された〔村上翠亭 pp..116-117〕〔春名好重 pp..106-107〕〔小松茂美(上) pp..226-227〕。 == 略歴 == 行尹は延慶2年(1309年)に正五位下、延慶4年(1311年)に左兵衛権佐、文保2年(1318年)に従四位下に昇進した。しかし、それ以後20年間の動向がはっきりしない。『入木口伝抄』によると、行尹は文保のころ、籠絡されて鎌倉に没落したとある〔『入木口伝抄』に、「文保之比、行尹朝臣牢籠没落于関東。」とある(小松茂美(上) p.204)。〕。 第11代当主である兄の行房が延元2年/建武4年(1337年)3月、金ヶ崎城落城時に自刃し、世尊寺家は年若い当主を失った。そして、行尹が第12代当主となり、世尊寺家は命脈を保つことができたが、行尹がいつ鎌倉から戻ったのか、その詳細は不明である。ただし、『公卿補任』によると兄の死の翌年(1338年)1月に行尹は従四位上に昇進したとあり、20年ぶりに官位が変化している。よって、このころに行尹は京に戻り、世尊寺家の家督を継いだと考えられる。 行尹は延元4年/暦応2年(1339年)1月に宮内卿、翌年4月に正四位下に昇進し、それ以後、能書活動が記録されるようになった。その記録は『園太暦』に詳しく、興国5年/康永3年(1344年)から正平3年/貞和4年(1348年)までの活動が見え、特に晩年期の活躍が著しい。例えば、「正平2年/貞和3年(1347年)9月25日、光厳上皇・広義門院が竹林院入道西園寺公衡の三十三回忌仏事を営むにあたり、菅原在成起草の願文を清書す。」〔小松茂美(上) p.227、渡部清 p.129〕などとある。 興国7年/貞和2年(1346年)、従三位に至るが、能書のゆえの栄進である。宮廷で持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)とが対立する中、行尹は北朝に仕え、公式の書役をつとめた。南北両朝の戦塵の中に行尹の能書活動が迎えられたのである。行尹の真跡として、『七首和歌懐紙』〔署名に「虎若丸」とある(小松茂美(下) p.134)。〕、『五首和歌懐紙断簡』〔署名に「道成」とある(小松茂美(下) p.134)。〕、『諸徳三礼』〔署名なし(小松茂美(下) p.135)。〕などが伝えられるが、確実なものは遺っていない。しかし、三条西実隆の日記『実隆公記』に、行尹の書いた伝奏番文の筆跡を称賛した記録があり〔『実隆公記』に、「伝奏番文於御前拝見。殊勝手跡也。行尹卿筆歟。」とある(渡部清 p.129)。〕、彼の筆跡が優れていたことは明らかである〔〔〔小松茂美(上) pp..203-206〕〔渡部清 pp..127-130〕。 行尹は兄・有能の子である行忠を養嗣子に迎えた。行忠は第13代当主となり、正二位・参議に至り、家門の面目を十二分に発揮した〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「世尊寺行尹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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