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世界平和統一家庭連合(旧世界基督教統一神霊協会「統一教会」または「統一協会」)に関する年表。 == 教団設立まで== * 1899年 : 定州に最初の長老派教会が設立。 * 1914年 : 3月18日(陰暦2月22日) 平安北道定州にて、「洪唯一」氏と「趙元模」夫人の長女として、「洪順愛」生誕。平安南道安州郡新義里育ち。弟が1人「洪順貞」がいる。 * 1920年 : 2月25日(陰暦1月6日)(公式) 平安北道定州郡徳彦面上思里2、221番地にて、「文慶裕」氏と「金慶継」夫人の次男として、「文龍明」生誕。兄が1人、姉が3人、弟妹が5人ぐらいとされる。 * 1924年 : 「崔先吉」生誕 * 7歳〜13歳 : 書堂で修学 : この期間、博打打ちになる。〔『(略)しかし先生(注:文鮮明自身)は、(注:八才(数え年の可能性があるのでもしくは七才)から)十二、三才まではバクチの選手だった。よくやった、これは男の気質に合う。全ての一晩もうけた金でもいっぺんになくなってしまったあとの気持ち、ムッスリした姿、男として体験すべきだよ。だからといってあんた方、それをやれ、と言うんではない。しかし、負けて負けて、もと返さねばならない希望の心というものは、男としては実にすばらしいものだよ。そういう体験もしたことがある。それもやったら負けるという思いでやったらすぐ交替する。やり方が非常におもしろいんだ、けれども勝てなくて、結局周囲にはマイナスになるんだということをはっきりわかった場合にはやるとしてもやらない。宇宙の原則である。』(神様と我々(絶頂を越えよ!)1972年5月6日東京・狭山湖)〕〔『(略)私はそれ(賭博)をよく知っているのです。先生は八歳から賭博王でした。賭博場の王(博打王)でした。(賭博に関して)知らないことはありません。朝に賭博をする下準備をしてですね、まだ子供だからある家に行って「○○のお父さんいますか?」と信号を送るのです。(賭博に誘うときは)トントンと家の門を二回たたくという約束になっているんです。家の門をたたいたら「(賭博しに)出かけよう」ということです。(村中の)家ごとに全部私の話を聞いてよく集まりました。(略)お金がなくても博打の場を仕切ることができます。そして必ず、(私の)父に話をするんです。「牛を売って牛の代金を私にください。」と。しかし、もし(父が)お金をくれなければ、(お金がどこにあるか)家中を探すのです。私が知らないことはありません。毎日のように(両親のタンスの)引き出しを探るんですよ。何がどこに入っているか、という具合にです。ですから私が知らないことがないのです。』(「文鮮明先生み言葉選集」308巻より)〕 * 1930年 : 10歳頃、家族が長老派に改宗・入教 * 12歳頃 : 学校の先生の薦めで聖書に触れ、家から歩いて20分ぐらいの康村にあった長老教会に通う。 * 193?年 : 不明 洪順愛、安州普通学校卒業 * 1932年 : 11月 劉明花が降神劇で「韓俊明は1933年6月9日にある女性と結婚し、270日後の1934年3月に、昼を司る偉大な聖人「광진」を生むだろう、また、朴スンゴルはある女性と結婚し、夜を司る偉大な聖人「광채」を生むだろう」と啓示〔(ミン・ギョンベ著「朝鮮におけるキリスト教の歴史」P433 延世大学出版 2005年)〕。 * 1933年 : 雲龍学院に通う。 * 1933年 : 6月3日 「白南柱」、「李浩彬」、「韓俊明」、「李龍道」ら、「イエス教会」創設 : 不明 洪順愛、「李龍道」から3日間の恵みを受ける。 : 不明 洪順愛、結婚(1933年説) : 10月2日 「李龍道」が33歳で死去。後任は「李浩彬」。 : 不明 洪順愛、「黄国周」の伝道隊員として活動する。〔「19歳になった時に、李龍道牧師が新しい役事を始めたので私も3日間の恵みを受けました。また李龍道牧師と同じ復興師であった黄国周氏が、人々に多くの恵みを与えました。黄国周氏の一派は約50名余りだったので、間島から新しい役事を起こして、韓半島を巡回していました。彼らは小麦粉に水を入れた物を飲みながらも、復興集会の時には激しく祈祷し、霊的な復興を行いました。また、黄国周氏には黄ウンジャという妹がいましたが、彼女は自分の兄のようにとても多くの火(聖霊の火)を受けたのでした。私は李龍道牧師から3日間恩恵を受け、黄国周氏の妹からも大きな感銘を受けました。それで黄国周氏の妹と、彼の父親、伝道隊員、そして私の6名で伝道に出発しました。安州を出て信義州まで歩きながら、「悔い改めよ、天国が近づいた」と叫びながら伝道しました。」(光言社「ファミリー」1987.10、P.29)〕 * 1934年 : 3月5日 洪順愛、結婚(1934年説) : 4月1日 雲龍学院から定州私立五山普通学校3学年に編入 * 1935年 : 4月 定州公立普通学校4学年に転校 * 1934年〜1935年 : トラックをヒッチハイクして朝鮮半島全国を遍歴〔(真の御父母様の生涯路程1)〕 * 1935年(現在の公式) : 4月17日〔-統一教会においてはこの日は復活祭に当たるとしているが、この日は日曜日ではなかったので一般のキリスト教会においては復活祭の日とはされなかった。-〕(水曜日)、現在の北朝鮮定州の「猫頭山」において〔1995年発行「聖地定州」〕、数え年16歳の文鮮明は霊的に出会ったイエス・キリストから“メシアとして果たせなかった使命を果たしてほしい”と頼まれたと自称してきた。彼はその責任の重さに何度も断ったが、最終的に受け入れたという〔田井友季子 『神の代辯者』(世界日報社、1995年2月5日)ISBN 978-4882010555 〕〔-世界基督教統一神霊協会(発行)『文鮮明先生を中心とする現代の摂理』(光言社 1990年12月1日)-〕(アメリカのテレビのインタビューでは「イエスはヘブライ語なまりの韓国語で話した」と答えている〔萩原遼 『淫教のメシア文鮮明伝』(晩声社 1991年) ISBN 978-4891880668 〕〔浅見定雄『統一協会 = 原理運動―その見極めかたと対策』(日本キリスト教団出版局 1987年3月20日) ISBN 978-4818421110〕)。 * 1935年 : 10月 「金聖道」夫人を教祖とする「聖主教団」(聖主教)が、金聖道の長男「鄭錫天」の名義で、朝鮮総督府宗教課に認可される。 * 1936年 : 3月25日 定州公立普通学校卒業 : 4月 洪順愛、平壌聖徒学院卒業 : 4月12日〔公式では1938年4月入学1941年3月卒業となっているが、1975年刊行の「山口浩著 原理運動の素顔」によると、同級生の証言から、1936年4月入学1939年3月卒業と判明している。〕 私立京城商工実務学校電気科(現・中央大学)入学。 : 在学中から(創氏改名に先行して)「江本」姓を名乗る。 : ソウル学生時代、ソウルの鍾路三街へ遊郭通いをする。〔『昔、(ソウルの)鍾路三街のような所には遊郭がありました。それを私が調査しなければならないというのです。なぜ美しい女性たちがあのようなことをしなければならないのかというのです。もしあれが自分の姉だとすればどうするのか、自分の娘ならばどうするのか、父や兄であれば、どうするのか、問題が深刻です。そのような若い女性たちに対して、夜を明かしながら話してあげたことを思い出します。』(「文鮮明先生の教育哲学」より 1988年10月16日)〕 * 1936年〜1939年 * 李龍道の弟子である李浩彬の「(ソウル)新イエス教会明水台教会」に通う。黒石洞に下宿。 * 1936年(1980年代頃までの公式) : 4月17日、数え年17歳の時、イエスからの啓示を受ける。〔(第十七回「世界統一国開天日」の御言 2004年10月3日 韓国九里市 中央修練院)〕 * 1936年 : 洪順愛、母「趙元模」と共に「新イエス教会」をやめ、鐵山の「聖主教」に移る(1944年まで8年間信仰) * 1937年 : 韓俊明、李浩彬の推薦で関西学院大学神学部に留学。 * 1939年 : 3月8日 私立京城商工実務学校電気科卒業(第三期卒業生) * 1939年4月〜1941年3月 : 空白の2年間 * 1939年 : 制令十九号(創氏)および二十号(改名)。朝鮮半島に婿養子制度の導入。 * 1940年 :2月11日 「江本龍明」と創始改名。 * 1941年(公式) : 3月31日 午後2時10分〔しかし当時の時刻表には該当する列車は存在しない。〕 京城発 京釜本線 急行「ひかり」で10時間かけて釜山へ。 : 4月1日 午前2時40分〔しかし当時の時刻表には該当する船は存在しない。〕 釜山発 関釜連絡線「昌慶丸」で日本へ。下関に到着。統一協会では4月1日を「日臨節」と呼び、例年記念行事を開催している。 : 4月2日 上京 : 同月 「江本龍明」の名で、早稲田大学付属早稲田高等工学校電気工学科(夜間の各種学校)に入学。朝鮮人学生二、三名と新宿区戸塚二丁目(現・新宿区西早稲田一丁目)にある三橋孝蔵・イト夫妻の家の2階に卒業するまで下宿。昼は川崎の製鉄所や横浜の造船所、運送運搬、練炭屋のアルバイト、などのさまざまな日雇い仕事をしていたとする。 : 日本留学時代に「抗日活動の為に、関釜連絡船に乗って朝鮮と日本を行き来していた」とする説あり。また、抗日活動をしていたという主張とは正反対に(実際に抗日活動などしたら、すぐに退学となる)、特別高等警察(特高)のスパイとして、早大生になりすまし、早大内の(民族派・独立派・反体制派)朝鮮人留学生グループに接近、内部に潜り込んで監視・情報収集し、同胞を日本の官憲に売り渡していたのではとする「仮説」がある。 : 日本留学時代、私娼街に通う。〔『日本遊学の時、先生は貧民窟から私娼街まで行って見ない所がありません。といっても悪い事をやったのではありません。私娼街にいる女の過去を探ってみれば、普通の人間の過去と違いはありません。社会環境に追われ、その流れに押し流されてどうしようもなく哀れな身の上になり、あるいは父母や兄弟のために自分一身を供え物にした話も聞きました。たとえ自分の体が巷に踏みにじられ、捨てられるそんな女になっても、淋しく消える哀れな女になっても、父母兄弟を生かすという覚悟と決心をしているという時、その手を握って共に慟哭した時もありました。結局、彼らも純粋で素直な人間であったのです。その時先生は、こんな悲惨な人類の解放のために闘おうと考えたのです。』(私のみ旨と信念 1969年2月2日〕〔『先生は日本にいる時、新宿の路地裏などをずーっと回ったりしました。どこにでも入っていって、女性たちの過去をずーっと尋ねてみます。ビールを持ってこさせるのです。しかし、酒は飲みません。そして、横に座って話をするのです。「なぜ、このような所に来たのか」。ずっと顔を見ながら、「父母がいないようだね」、「母親がいないのではないか」と言えば、だんだんと心を開いて、「そうです」と話し始めるのです。そのようにして、ずっと研究しました。そのような場で、彼女の父母以上に悲しみ、彼女の兄さん以上に痛哭できる心情をどのように誘発させるかを考えました。そのようにしなければならないというのです。街頭の女性たちに対して、訪ねていって悪いことをするのではなく、事情を聞いて、そのような女性をどのように解放するかと、涙の同志になることができる道を探してさまよった、そのような男でした。また、娼婦の巣窟に入っていき、彼女らを悪の巣窟から引き出してやることもしました。ありとあらゆる誤解を受けながらも、そのようなことをしました。このような階層にいる人たちを、先生は心配しなければならないので、そのような複雑な役事がなされたのです。先生は、本当に彼らのために生きたのです。』(真の御父母様の生涯路程1)〕 * 1942年〔『お母様(注:韓鶴子)の父は李龍道牧師の弟子で啓示を受け「洪唯一という人の娘を嫁にもらえ。その子供が男なら天宙の王になる。女の子なら天宙の女王になる(注:「女なら天宙の女王」という啓示は、後で作為的に創作した可能性が高い)」というのです。そして私と二月の終わりに出会って三月の終わりにお母様をはらんだのです。』(洪順愛大母様の証 1973年12月21日松濤本部)〕 : 2月の終わり 洪順愛、韓鶴子の実の父と出会う。〔『(略)天がお母様(注:韓鶴子)を送られるまでは、母(注:趙元模)の実家三代が精誠の限りを尽くした土台の上に来られたのです。それに、一人娘でなければなりません。そして、三代の新しい集団を経て出てこなければなりません。金聖道集団、許孝彬集団、統一教会まで三代です。そのような精誠と条件と摂理がなくては、再臨主に会って配偶者となることはできません。(略)見慣れぬ白い服の二十歳あまりの青年が私に、「おばさんは、天から娘一人を生むためにこの世に来たのですが、今、夫婦生活をしていますか? 独身で過ごしていますか?」と質問するのです。それは何の話かというと、「今、修道生活をしているのか、家庭生活をしているのか?」と聞いてきたのです。それで私は、「イエス様を信じている」と言うと、「それは良かった」と言うのです。「なぜ良いのですか?」と聞いてみました。すると、「おばさんは、世の中で夫婦生活をしても素敵にうまくできたのですが、この地上で夫婦生活をし、幸福を享受しながら暮らせば、天に対して逆賊になる」と言うのです。そして、「修道の道は、寂しい道であり、孤独な道であり、苦難の道であるが、三、四年以内に修道の道でとても大きな成功をする」と言うのです。(略)南下してから七年後に、統一教会に入ってお父様(注:文鮮明)にお目にかかってみると、再臨主がどのような顔と姿であられるかは、以北で二回も天から教えていただいたので、すぐに分かりました。それで私は、お母様にも証しをしたのです。(略)』(「侍義と精誠の生涯」洪順愛大母様の証 1975年8月10日米国・ベルベディア)〕 : 3月の終わり 洪順愛、妊娠〔『来られる再臨主は、許孝彬氏には霊的に現れて見えるのですが、精誠を尽くしている私(注:洪順愛自身)たち食口には見えないのです。「どうして見えないのですか?」と聞いてみると、「そのときは一人の人間を通して教え、摂理しなければならないからだ」と言うのです。(略)天のお父様に、「再び来られる再臨主を、夢の中ででも一度見せてください」と祈りました。(略)夢の中で、韓国式の新しく建てた南向きの小さな藁屋が一軒現れました。(略)戸の外で門番が入らせないようにするのです。その人は、私を生んだ実家の母でした。(略)入ると南側に机をおいて、頭を縛った壮健なかたが座って勉強をしておられました。それで私は、おとなしく頭を下げて座っていると、そのかたが振り向かれ、「私が六千年間おまえ一人を捜すため、このように勉強しているのだ」と言われたのです。その恩賜にあまりにも感激して、泣き続けました。それで私は、心から自信を持ったのです。「私は再臨主の顔をはっきりと見たので、これから再臨主が現れれば、そのかたを見誤ることなく侍ることができる」それから三週間後に、また夢を見ました。そのかたが私に現れて、次のように言われたのです。「おまえが一番愛し大切にする敷き布団と、うすい灰色の洋服一着、新しいリュックサック、新しいハンカチを用意しておくれ」(略)「はい、すべて準備しました。これをお持ちになってどこへいらっしゃいますか?」とお尋ねすると、「北の方にもっと勉強をするために行く」と言われました。ですから、勉強されるというのは、全世界に知らせるための原理を研究されることを意味するのではないかと思います。』(「侍義と精誠の生涯」洪順愛大母様の証 1975年8月10日米国・ベルベディア)〕。洪順愛が妊娠した時期、韓承運は単身赴任中で、遠く離れた黄海道延白郡にいた。 * 1942年 : 地下教会(神霊集団)の本格的遍歴を開始〔『先生はまず、地下教会(神霊集団)を遍歴しました。日本の神社を参拝した汚された人々が現れるために、解放の三年前から、つまり数えの二十三歳(満22歳)から、地下教会(神霊集団)の遍歴を始めたのです。「神霊的な人たちは、どのような道を行くのだろうか。神様の摂理はこうこうでなければならないはずだ。そのために準備団体が必ずなければならないはずだ」と考えて、地下教会を探査し、有名だという神霊的な人々にすべて会ってみました。しかし彼らも神様のみ旨を知らずにいたというのです。神様のみ旨の方向を知らずにいたのです。』(真の御父母様の生涯路程1)〕 * 1942年 : 10月頃 洪順愛、妊娠7ヶ月。洪順愛の夫にして韓鶴子の父「とされる」「韓承運(韓承雲)」、洪順愛の親からの「婿養子として迎える」という話を断り、洪順愛と別れる。 * 1943年 : 2月10日(陰暦1月6日)(公式) 日本併合下にあった朝鮮の平安南道 の安州郡の信里(現在は北朝鮮統治区域)で後に文鮮明の妻となる韓鶴子(ハン・ハクジャ)が誕生。〔『(略)懐妊なさった大母様(注:洪順愛)と食口たちに天の驚くべき啓示がおりました。(略)「順愛よ、おまえのおなかの中の赤子は再臨主であられる。貴く心に留めよ」というものでした。(略)複数の信徒たちにも「順愛のおなかの中の赤子は再臨主であられる。貴く心に留めて精誠を尽くしなさい」という啓示がありました。(略)ところが(略)再臨主と言われたのに男の子ではなく女の子が誕生したのです。(略)神様は、独り子を送り、貴く思って、信じて仕えて従うようにみ旨をくださったのに、男の子ではなく女の子だったのです。(略)再臨主となられる男の子ではなく、女の子を分娩なされましたが、大母様は、とても大事に愛して養育することにどっぷりと侵られました。ある日、乳を飲ませていると、天から声が聞こえてきて「順愛よ、その赤子が愛らしいか? その赤子はおまえの赤子ではない。おまえはその赤子の乳母だ。天の赤子だ。しっかりと育てなさい」。このような驚くべき声だったといいます。(略)』(2003年発行「真の愛の勝利者」姜義弘の証より)〕 : 9月30日 戦局の悪化とともに、卒業を半年繰り上げて卒業。 : 10月 卒業後すぐに半島に戻る。 : 12月 23歳の文鮮明が18歳の崔先吉(チェ・ソンギル、教団では「真の母」〔-メシアである真の男性(アダム)である文鮮明の妻となることにより、全人類に対して母の立場に立つ女性との意。-〕としての第一候補だったとされる)と婚約。「年齢は10代で、篤実なキリスト教徒であり、洗礼ヨハネの使命を果たす女性」という条件で文鮮明は選んだという。なお、崔先吉は母親と共に、大韓イエス教長老会(再建派)の信者であった。見合いだったともされる。崔先吉の実家は豪農であり、文鮮明は「早稲田大卒のエリート」と学歴詐称して結婚したとされる。見合いの日から3日間、崔先吉の実家に寝泊りし、性交したとされる。〔週刊ポスト1993年10月8日号「血分け論争第二段 最初の妻 崔先吉女史 が告白!文鮮明教祖の性の祕密」〕 * 1944年 : 年初 鹿島組(現・鹿島建設)の京城(ソウル)支店に電気技師として就職。 : 4月1日 「金聖道」が62歳で死去 : 4月25日〜1945年5月21日 「シオン山帝国事件」。長老教伝道師の朴東基が、慶尚北道青松郡にて、朝鮮半島の独立と「シオンの山の帝国」の建国を宣言。 : 5月 崔先吉と「聖婚式」〔-再臨のキリスト(メシア)であるとされる文鮮明が花嫁を娶るということから聖なる結婚式という意。-〕を挙げる(「血分け」を行う混淫派とも言われる李龍道(イ・ヨンド)派の「イエス教会」の幹部である李浩彬(イ・ホビン)の司式により行われたとも言われる)。 : 10月 文鮮明が日本留学時の抗日運動の事実が発覚し、京畿道(キョンギドン)警察部により連行され、拷問を受ける〔しかし複数の信者の証言により、文鮮明の背中には傷が無いことが判明している。よって日本警察に拷問をされたというのは箔をつけるための虚言であると考えるのが妥当である。〕。 * 1945年 : 2月 文鮮明が半死状態で〔上記参照。拷問を受けたのが虚偽であるのなら半死状態になるはずが無い。〕釈放される。 : 3月 鹿島組に再就職。 : 4月28日 崔先吉との婚姻届を提出。 : 8月 日本敗戦により退職。 : 10月 郭山の警察に一時拘束される。 : 10月 京畿道の坡州のイスラエル修道院 の金百文(キム・ペグムン)〔-元山のイスラエル修道院の白南柱(ペク・ナムジュ)の弟子-〕のもとで学ぶ。京城の永登浦区域所(現:永登浦区)上道洞の礼拝所で補助引導師を務める。 : 10月25日 イスラエル修道院で金百文から「ソロモン王の祝福」を受ける。その後、「自分はソロモン王の直系の子孫の末裔だ」と信じるようになる。〔メシアはソロモン王の直系の血統から誕生するとされる。文鮮明は、セム族は黄色人種であり、古代イスラエル人の子孫が昔に韓国に移住した(韓ユ同祖論)と信じていたとされる。〕 * 1946年 : 4月 金百文が自分の弟子たちに降りた「文鮮明がソロモン王である」という啓示を信じず受け入れなかったため、文鮮明はイスラエル修道院を去る〔。 : 6月6日 天啓により、妻と3ヶ月の息子「文聖進」(ムン・ソンジン)を置き去りにして、朝鮮キリスト教布教の中心地であったソ連占領下の平壌へ行く(神が用意した神霊集団を統合し直すためとされる。それらの集団は「混淫派」や「霊体交換派」と呼ばれる「血分け」を行う者達だとも言われる。)〔事実は、平壌に行ったのは、血分けの実践者で「聖なる母」である「鄭得恩」(丁得恩)に重生(男性が、原罪の無い女性と性交をすることで、その女性の息子として原罪の無い肉体に生み直して貰うことで生まれ変わる(そのように看做す)血分けの儀式のこと)してもらうためであった。これにより文鮮明は救世主としての自信を得た。〕。 : 朴雲女(パク・ウンニョ)〔「鄭得恩(丁得恩)」の存在を隠すための、統一協会の公式文書中での「鄭得恩(丁得恩)」の偽名。「朴雲女」という人物は実在するが、平壌に行ったことは無く、別人。〕と共に布教を始める〔村上重良 『世界宗教事典』 講談社 2000年7月10日-〕。 : 6月11日 金百弼(キム・ウォンピル、三弟子の1人)が弟子となる。 : 家庭集会を中心に活動し、弟子が増えていったが、キリスト教会からは異端視される。 : 8月11日 牧師の訴えと李承晩(イ・スマン)のスパイ嫌疑(風俗紊乱の容疑だったとも言われる)で大同保安署に拘束される。 : 大同保安署に3ヶ月収容(獄中に、再臨主を待つ「腹中教」の教祖「許孝彬」(聖主教平壌教会長「李一徳」の妻)とその幹部もいた)。朝鮮労働党当局による拷問を受ける〔上記参照。複数の信者の証言により、文鮮明の背中には傷が無いことが判明している。よって朝鮮労働党当局に拷問をされたというのは箔をつけるための虚言であると考えるのが妥当である。〕。 : 11月21日 釈放。 * 1947年 : 初旬 平壌で伝道開始。 * 1948年 : 2月22日 平壌内務署により拘束される。 : 4月7日 文鮮明は、「社会秩序を乱した」という社会紊乱罪で〔-教団では社会紊乱罪だと教えているが、姦淫容疑で逮捕された、または実業家の人妻、金鍾和(キム・ジョンファ)と怪しげな儀式をしているところを警官に踏み込まれ、強制結婚の現行犯で逮捕され、夫の告訴による公判で懲役5年の実刑。相手の人妻も10ヶ月の実刑となり共に収監されたなどとも言われる。-〕、重労働5年の実刑を受ける。 : 4月〜5月 平壌刑務所に収監される。 : 5月20日 興南(フンナム)収容所(徳里特別労務者収容所)〔-「日本窒素肥料」(現:チッソ)が1926年、朝鮮に設立した「朝鮮窒素肥料」の興南工場跡を当時北朝鮮当局(朝鮮民主主義人民共和国の正式な建国は文鮮明収監の5か月後の1948年9月9日)は収容所に使用していた-〕に移送、収監される。肥料の山を移しかえる仕事をさせられる。興南収容所に収監されている間に妹が亡くなったとされる。 : 文鮮明が収容所に送られてきた朴正華(パク・チョンファ)を弟子にする。 : 8月15日 「大韓民国」成立。 : 年月日不明 洪順愛、共産勢力が強まってきたため、母親と娘を連れて南韓のソウルへ避難。 : 9月9日 「朝鮮民主主義人民共和国」成立。 * 1950年 : 6月25日 朝鮮戦争(6・25動乱)勃発。 : 8月1日 国連軍、興南工場を爆撃。 : 10月14日 大韓青年団の奇襲により解放。 : 10月24日 平壌に戻り、弟子を訪問。 : 12月4日 弟子と共に、大韓民国の臨時首都となっていた釜山府(現:釜山広域市)へ避難する。 * 1951年 : 1月4日 1・4後退。洪順愛、大邱にて、先に来ていた聖主教の「鄭錫天」長老と会う。 : 1月27日 釜山、草梁駅に到着。 : 1月28日 日本留学時代の友人「厳徳紋」に出会う。 : 5月11日 「原理原本」執筆開始。〔そんなある日、三千浦へ李鳳雲長老が突然訪ねてきた。李長老は、「水晶洞の教会がたいへんなことになっています。崔先吉さんが、文鮮明先生が婦人の食口たちと復帰の儀式(セックス)をやっているのを見て暴れ出し、食口たちを全部、追い出してしまいました。そして、水晶洞の教会を崔さんが家財道具ごと売り払って、教会がなくなってしまい、集会もできない状態になっているのです。できるだけ早く戻ってきて下さい」と私に言った。(中略)あとでわかったことだが、文鮮明の復帰の儀式に名をかりた目に余る乱脈なセックスに腹をたてた崔先吉夫人は、水晶洞教会で大暴れして、女の食口たちを叩き出した。恐れをなした文鮮明は、女たちを連れてソウルヘ逃げ、清進洞に隠れ家を借りて女たちと住んだ。しかし、そこもわずか一週間で崔夫人に突きとめられてしまった。私が釜山の専売庁支店から帰る直前、文鮮明はあわてふためいて女たちを四散させ、命より大切なはずの原理原本の草稿もそのままに、崔夫人から逃げ出したのである。女の食口たちに囲まれて暮らすことは、つまり乱れた「女護が島」を意味する。なぜなら文鮮明を取り巻く女食口たちは、復帰原理に沿って身体を開き、再臨メシアを自称する文鮮明とセックスを最低三回はしなけれぱ、女として復帰の資格が与えられないからだ。当時、文鮮明を先生と仰ぎ、その原理を盲信していた私は、しばしば復帰の実践現場であるセックスを目撃したり、宗教儀式にそぐわない女食口たちの、狂態や矯声を見聞したこともある。だが、あくまでもそれは、再臨主としての務めだと解釈していた。一方で、どうしてもわからなかったことは、なぜ再三にわたって尻に帆をかけたように崔夫人から逃げ出すのか?だった。メシアなら妻の前でも堂々とやれぱよいのに、妻一人伝道できなくて、どうしてこの世が救えるのか?と疑問が湧いてきたのも事実だった。それともう一つ。あれだけ大切な、伝道には欠かせない原理原本を放り投げて逃げ出した文鮮明に、言行不一致の疑いを持ったのも事実である。清進洞から逃げた文鮮明は、また別の場所で女と一緒だったが、それがまたとんでもない事件に発展していくことになった。(朴正華著「六マリアの悲劇」恒友出版 1993年 P.81)〕 : 8月 ダンボール小屋(ボンネッコル教会)を建て、布教開始。 * 1952年 : 5月10日 文鮮明が1年をかけて、自らの教えをまとめた「原理原本」を書き上げる。同日、高麗神学校(現在の高神大学)の学生でキリスト教の伝道師、姜賢実(カン・ヒョンシル)が文鮮明を訪ねて来る。後に入教。 : 12月 済州島から李耀翰(イ・ヨハン、り・よはね)牧師が訪ねて来て入教。 * 195?年 : 年月日不明 洪順愛、済州島に避難。何ヶ月か生活。婚約者(もしくは夫)である「鄭錫鎮(錫珍)」(鄭恒俊と金聖道の次男。「鄭錫天」の弟。別名「鄭平和」)と暮らす。聖別(性交を禁じる)のため、鄭錫鎮が出て行き、別れる。 * 1953年 : 7月27日 朝鮮戦争休戦。 : 12月 ソウル大学出身の劉孝元(ユ・ヒョウウォン)が入教。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「世界基督教統一神霊協会の年表」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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