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松平 親氏(まつだいら ちかうじ)は、室町時代初期の三河国の武将。江戸時代に作成された系譜において松平氏・徳川氏の始祖とされている人物。「松平氏由緒書」では名を信武と記している〔。 == 生涯 == 父祖の系譜については、新田源氏世良田氏の末裔とされている〔平野明夫著『三河 松平一族』(2002年、新人物往来社、33頁)〕。新田義重の四男義季が新田荘徳川に住して得川を称した〔。義季の二男を頼氏といい、世良田弥四郎と称し、三河守となった〔。その二男を次郎教氏、教氏の子が又二郎家時、家時の子が弥次郎満義である〔。満義のあとを政義、親季、有親と継いで有親の子が親氏という〔。 しかし、この系譜は徳川家康が永禄9年(1566年)に叙任奏請をする際、世良田氏の系譜と自らの系譜をつなげたことが、日本史学者渡辺世祐により論証されている〔。今日の学界では家康によって粉飾された系譜というのが通説になっている〔。もっとも家康の祖父清康がすでに世良田氏を称していて、家康はその影響を受けたものと考えられている〔。 親氏は関東(あるいは信濃国浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足利氏の追捕を避けるために父・有親とともに相模国の時宗総本山清浄光寺に入って出家し、徳阿弥(とくあみ)と称したとされる。「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場合もある〔高山秀夫『江戸から東京へ 物語でつづる部落の歴史』p.5(文理閣、1977年)〕。しかし、清浄光寺での落髪が語られるようになるのは「武徳大成記」成立後の元禄期以降であることが、煎本増夫により明らかにされており、後世になってから作られたものと考えられる〔。 徳阿弥は部下の石川孫三郎〔『称名寺略記』および『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』。同行者として石川孫三郎の名がみえる。〕を従えて諸国を流浪し、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、在原氏あるいは賀茂氏の血筋を引く同地の領主松平信重(太郎左衛門少尉)の客人となった。信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたので、徳阿弥は還俗して松平太郎左衛門尉親氏と名乗ったという。 「松平氏由緒書」では信重から先祖を尋ねられた親氏が、「わたくしと申しますのは東西を定めずに旅する浪々の者でありまして、恥ずかしく存じます」と返事をしたとする〔平野明夫著『三河 松平一族』(2002年、新人物往来社、34頁)〕。ここには氏素性の知れない者として親氏は書かれている〔。 松平郷の領主となった親氏は、郷敷城を築き、嫡子(兄弟説〔『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』において親氏が兄、泰親を弟としている。〕もある)とされる泰親と協力して「中山七名」と呼ばれる近隣の領主たちを滅ぼし、勢力を拡大して戦国大名松平氏の基礎を築いたという。しかし、「松平氏由緒書」の記述から、実際には買得によって土地を獲得したと見る説もある〔平野明夫著『三河 松平一族』(2002年、新人物往来社、43 - 44頁)〕。 親氏は武芸に通じ、教養があり、信仰と慈悲の心が深かく、領内に菩提寺となる高月院を初めとして多くの神社仏閣を建立し、貧しい領民には援助を惜しまなかったという。 しかし、以上のような親氏の出自と事歴については、後世の松平氏・徳川氏の主張に拠っており、傍証となる同時代史料は無いため、既述した論考の他、松平氏創業の二代、親氏と泰親が同時代の史料にその名を見出すことができないため、実在を疑う説もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平親氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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