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両角 良彦(もろずみ よしひこ、1919年10月 -)は、日本の官僚。通商産業事務次官。ナポレオン研究家。 == 来歴・人物 == 幼き頃は父・業作(のち陸軍中将)の転勤に伴い、東京府豊多摩郡杉並尋常高小(現・杉並一小)、豊橋市新川小、宇都宮市西小と転校した。また、この頃から持病である左中耳の根治手術を受け、当時顔の左半分にマヒが残るなどし、以後の人生において苦労した。宇都宮中学に入学するも、東京府立六中へ転校。第一高等学校首席を経て、1941年12月末、東京帝国大学法学部卒業。総長・平賀譲の出征学徒への送別の辞を聞く。在学中に高文合格、伯父で商工参与官も務めた今井健彦の縁で商工省に入省した。同期には、赤澤璋一(のち重工業局長、ジェトロ理事長)、原田明(のち通商局長、松下電工(現・パナソニック電工)副社長)、吉光久(のち中小企業庁長官)など。1942年1月、燃料局へ出向した。 戦後、GHQとの通訳を務め、反トラスト法・反カルテルの理念に、従来からの重要産業統制法以来、カルテルを是とする日本の秩序との整合性に苦労しながら、主に解説や翻訳を担当した。部下にのちに「ミスターエネルギー」と呼ばれた生田豊郎(科技庁原子力局長、エネ研理事長)、1964年から経済白書を執筆しエコノミストで知られることになる金森久雄(日本経済研究センター理事長)らがいた。 その後は、大阪府商工一課長、通産省官房調査課長などを経て、外務省に出向し在フランス大使館一等書記官に着任した。他省からは、山本鎮彦、竹内道雄、稲村光一(財務官)、栗栖弘臣(統合幕僚会議議長)らがいた。当時のフランス人のダンピング(ソーシャルダンピング)≒日本との偏見への対応に苦慮しつつも、官民協調の混合経済方式を勉強してきた。日本に戻り、通産省企業局企業一課長に就任。小長啓一(アラビア石油会長)、濱岡平一(日産自動車副会長)、末木凰太郎(日本電子計算機社長)、内藤正久(元産業政策局長、伊藤忠商事副社長)などが部下にいた。フランスで学んだ経験を引っさげ、貿易や資本の自由化の前に企業に国際競争力をつけさせようと、のちに佐橋滋事務次官以下のスポンサー無き法案・特定産業振興臨時措置法(特振法)の下地作りに取り掛かる。 以後、鉱山局長時代の1967年10月に石油開発公団(石油公団)設立。官房長、企業局長を経て、1971年、第3次佐藤内閣時代に通産事務次官に就任。田中が通産大臣時代から、部下であった豊島格(資源エネルギー庁長官)らと共に、田中角栄、田中清玄らと日本独自の資源獲得の意味合いからインドネシアの石油利権の獲得に動いたことでも知られている。1975年、電源開発総裁。 私の履歴書誌上にて、特振法案、国際石油備蓄基地、キャンドゥ重水炉(CANDU炉)の頓挫が心残りであったことも併せて語っている。「資源派のドン」と云われる所以である。またナポレオンの研究者としても知られ、在パリの伊吹迪人から資料をわざわざ取り寄せるなど書き上げた『一八一二年の雪 モスクワからの敗走』(朝日新聞社)で日本エッセイストクラブ賞受賞。他に『反ナポレオン考 -時代と人間』(朝日新聞社)など。 また城山三郎原作の『官僚たちの夏』の牧のモデル。あだ名は「官僚たちの夏」で登場した「西洋カミソリ」、他に「カミソリ両角」、「両(もろ)さん」など。女流歌人の今井邦子は叔母にあたる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「両角良彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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