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並木 輝男(なみき てるお、1938年11月15日 - 1988年9月1日)は、東京都世田谷区出身のプロ野球選手(外野手)。 == 来歴・人物 == 日大三高在学時は投手として活躍。1955年の全国高等学校野球選手権大会、翌1956年の選抜高等学校野球大会に出場し、4番エースとして活躍。この2大会とも、チームはベスト8まで勝ち進んだ。 高校卒業後は早稲田大学に進学を予定していたが、家庭の事情によりに大阪タイガースに入団〔。元々は中日ドラゴンズへ入団する予定だったが、担当していたスカウトの佐川直行がドラゴンズを解雇され、タイガースに移ったため並木もタイガースに入団することとなった〔同様に、佐川の移籍によって入団先がドラゴンズからタイガースに変わった選手として、鎌田実がいる。〕〔。1957年3月30日の対中日戦(中日)に先発出場〔。これは、セ・リーグ史上初の高卒新人として開幕戦先発出場であった〔並木以降、セ・リーグで高卒新人が開幕戦先発出場を記録したのは、の王貞治(読売)との立浪和義(中日)の2人のみである。〕。1957年シーズンは、ルーキーながら98試合に出場、打率.250、8本塁打、32打点を記録した。同年に記録した高卒新人での8本塁打はに松井秀喜(巨人)が11本塁打を記録するまでセ・リーグ史上最多記録であった。入団当時は内野手だったが、間もなく外野手に転向している。 その後、チームの主力の金田正泰、後藤次男、田宮謙次郎等が引退などで抜けていく中、には3番・センターに定着〔。初のオールスターゲームに出場、ベストナインも獲得した。そして自己最高の打率.306という成績を残した。阪神タイガースの球団1000号、1500号本塁打を放っている。 しかしオフにチームは若返りの方針をとり、中堅選手の並木は自由契約となった。そして、オフに東京オリオンズに移籍。だが、翌のキャンプで右足アキレス腱を切断したため〔近藤唯之 『背番号の消えた人生』 新潮社(新潮文庫)、1985年、154頁。〕阪神時代と同じような活躍は出来ず、2年間でわずか9試合の出場に終わった。そしてに現役を引退。1969年にスナック「並木」を開店する。1973年にクラブ「並木」を経営〔近藤、155頁。〕。 その傍ら読売テレビ・サンテレビで野球解説者を務めた。 、古巣・阪神の一軍打撃コーチに就任。一塁ベースコーチも担当し、21年ぶりのリーグ優勝と球団初の日本一に貢献〔〔。大人の対応で、選手個々に応じた指導がチームの打力爆発のきっかけとなり、イッキ攻撃の影の仕掛け人であった。オフに退団。 その後はサンテレビの解説者に復帰したが、1988年9月1日、突然脳出血に襲われ急逝〔。。 1964年、上京中に車中で俳優の勝新太郎と遭遇。勝と「並木が巨人戦で本塁打を放ったら、勝が並木の結婚式の仲人をする」と約束〔。その後にあった後楽園球場での対巨人戦で本塁打を放ち、並木の結婚式の仲人は勝新太郎・中村玉緒夫妻が務めた〔。東京オリオンズへの移籍も勝の意向による〔近藤、153頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「並木輝男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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