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ファーティマ朝(アラビア語 : الدولة الفاطمية al-Dawla al-Fātimīya)は、シーア派の一派、イスマーイール派が建国したイスラム王朝(909年 - 1171年)その君主はイスマーイール派が他のシーア派からの分裂時に奉じたイマーム、イスマーイールの子孫を称し、イスラム世界の多数派であるスンナ派の指導者であるアッバース朝のカリフに対抗してカリフを称した。王朝名のファーティマは、イスマーイールの先祖である初代イマーム、アリーの妻で預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来している。 ファーティマ朝は、北アフリカのイフリーキヤ(現在のチュニジア)で興り、のちにカイロに移ってエジプトを中心に支配を行った。イスマーイール派の信仰を王朝の原理として打ち出し、カリフを称するなどアッバース朝に強い対抗意識をもった。同じ時期にはイベリア半島のアンダルスでスンナ派の後ウマイヤ朝がカリフを称したのでイスラム世界には3人のカリフが鼎立した。そこから、日本ではかつては3人のカリフのうち地理的に中間に位置するファーティマ朝を「中カリフ国」と通称していた。 == 歴史 == === 建国 === ファーティマ朝の遠源は、8世紀後半にイマーム派(シーア派の多数派)の第6代イマーム、ジャアファル・サーディクが亡くなった時、その長子イスマーイールのイマーム位継承を支持したグループが形成したイスマーイール派にある〔私市 (2002)、pp.204-205.〕。イスマーイールの死後はこの派からはイマームがいなくなり教勢が衰えたが、9世紀後半になって、イスマーイールの子ムハンマドは現世から姿を隠している隠れイマームであり、やがて救世主(マフディー)として再臨し、隠された真実を顕現するとする教理を主張するようになり、盛んに教宣活動を行った〔私市 (2002)、p.204〕。 ファーティマ朝の始祖ウバイドゥッラー(アブドゥッラー・マフディー)はイスマーイールの子孫を称するイスマーイール派教宣運動の指導者で、従来の教理を改めて自らがイマームにしてマフディーであると宣言、活動を先鋭化していた〔ヒッティ (1983)、pp.530-531.〕。ウバイドゥッラーの指示に従い、イスマーイール派に対する迫害の厳しい本拠地シリアから離れた北アフリカで活動していた教宣員のアブー=アブドゥッラー(アルハサン・ブン・ザカリヤーとも呼ばれる〔。)は、現地のベルベル人の支持を集めて軍事力を組織化することに成功し、909年にイフリーキヤを中心に北アフリカ中部を支配するアグラブ朝を滅ぼした〔私市 (2002)、pp.205-206.〕。彼らはウバイドゥッラーをシリアから北アフリカに迎えカリフに推戴し、チュニジアの地でファーティマ朝が建国された〔私市 (2002)、p.206〕。 ウバイドゥッラーは王朝建設の功労者アブー=アブドゥッラーを粛清してカリフによる独裁権力を確立、チュニスの南に新都マフディーヤ(「マフディーの都」の意)を建設してシーア派国家のファーティマ朝の支配を固めた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ファーティマ朝」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fatimid Caliphate 」があります。 スポンサード リンク
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