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本項中国の絵画(ちゅうごくのかいが)では、中国における歴代の代表的な画家やその作品を紹介しつつ、中国絵画の特色と歴史について概観する。 == 中国絵画史の概観 == 絵画の歴史は、文明の発生とともに、世界各地で自然発生的に始まった。中国においても新石器時代には彩文土器と呼ばれる、幾何学文、人物文、動物文などの絵画を表した土器が製作されている。また、「岩画」と呼ばれる、自然の岩壁に描かれた絵画もあるが、これらは原始美術の段階にとどまっており、後の中国絵画に直接つながるものではない〔(藤田、1997)p.73〕。殷・周・春秋・戦国時代には、青銅器や銅鏡などの文様に絵画的表現がみられる。器物の装飾や墓室の荘厳を離れて、独立した絵画作品がつくられるようになるのは秦・漢時代からである〔(宮川、1982)p.90〕。ただし、漢時代の絵画として現存するものは、墳墓出土の帛画(絹絵)や画像石などに限られている。画史には漢時代の画家の名前も記録されているが、これらの画家の作品は残っていない〔王『中国絵画史事典』、p.26〕。南北朝時代に入ると、東晋(4世紀)の画家・顧愷之(こがいし)の伝承作品はいくつか残っており、その画風をしのぶことができるが、現存する顧愷之画はオリジナルではなく、後世の模本である〔王『中国絵画史事典』、pp.75 - 76〕。以後、唐時代までの鑑賞絵画の現存作品はほとんどが模本であり、オリジナルの絵画は敦煌などの辺境の地に残された石窟寺院の壁画や、地下で保存されてきた墓室の壁画といったものに限定されている。中国の絵画はその多くが絹や紙のような脆弱な素材に描かれている。加えて、度重なる王朝の交替やそれに伴う戦乱によって、古画の多くが失われた〔鈴木『中国絵画史 中之二』、p.50〕。画巻などの鑑賞用の小画面の絵画の他に、宮廷の殿舎や仏教寺院の壁画のような大画面の絵画も多数存在したが、これらは建物と運命を共にし、古いものは残っていない〔王『中国絵画史事典』、pp.85, 159 - 160〕。 中国絵画史を大観的に見れば、中唐(8世紀)までは人物画・着色画が主体であり、山水画・水墨画が主要なジャンルになっていくのはそれ以降のことである〔『別冊太陽』「台北故宮博物院」、pp.118, 122, 134〕。水墨による山水画は文人(儒教的教養と道徳とを身に付けた、知識階層の人々)によって愛好された。こうした文人によって制作され享受された絵画を文人画という。文人画は北宋時代・11世紀頃からジャンルとして確立し、元時代には画壇の主流となった。明時代末の董其昌(とうきしょう)は、唐時代以来の山水画の歴史を、北宗画(職業画家系)と南宗画(文人画系)という2つの流れに分類したうえで、南宗画すなわち文人画が優れたものであり、北宗画すなわち職業画家の山水画は学ぶ価値のないものだとした。画家・書家であるとともに高級官僚でもあった董其昌の理論の影響力は大きく、文人画を優位に置き、古画の学習を重んじる風潮は次の清時代にも続いた。一方で、清時代にはそうした粉本主義に反発し、独自の個性的な画風を追求した画家たちも多数存在した〔(王耀庭、1995)pp.183, 184, 187, 193〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中国の絵画」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Chinese painting 」があります。 スポンサード リンク
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