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中国地方(ちゅうごくちほう)は、本州の西部に位置する、日本の地域のひとつ。 鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県の5県より構成される〔『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.730 ISBN 4-09-523101-7〕。なお、行政上の管轄としては気象庁は山口県を除き、海上保安庁は山口県西北部、国土交通省海事事務所は下関市を除く。 == 概要 == 「中国」地方という呼び名の由来ははっきりしていないが、一説には古代、畿内を中心に令制国を「近国」「中国」「遠国」に区別したとき、この地方のほとんどが「中国」に相当したからだとされている〔中国地方 - Yahoo!百科事典 〕。 表記・発音共に同様の中国(現在中華人民共和国が支配している地域)と区別するため、他の日本の地域とは異なり「地方」を省略することは現在では少ないが、かつての日本では中国地方を単に「中国」と呼び、明治時代の内村鑑三は広島人と山口人を「中国人」と呼んだ。そして現在混同しやすい大陸中国のことは西欧での呼称SINA(ラテン語)に当て字をして「支那」、大陸に住む多様な人種を総称して「支那人」と呼んでいた〔『真実の「名古屋論」トンデモ名古屋論を撃つ』(呉智英著、人間社)〕。 文献上の早い例は、1349年に足利直冬が備中、備後、安芸、周防、長門、出雲、伯耆、因幡の8カ国を成敗する「中国探題」として見られる(「師守記」「太平記」)こと、翌50年に高師泰が足利直冬討伐に「発向中国(ちゅうごくにはっこうす)」(「祇園執行日記」)、54年に将軍義詮が細川頼有に「中国凶徒退治」を命じた(「永青文庫文書」)こと等。南北朝時代中頃には中央の支配者層に、現在の中国地方(時には四国を含めた範囲)がほぼ「中国」として認識されていた。また、中央政治権力にとって敵方地、あるいは敵方との拮抗地域であった(岸田裕之執筆「中国」の項、『日本史大事典4』平凡社、1993年)。とはいえ、この当時の「中国」の呼称は俗称に過ぎず、日本の八地方制度の1つとして「中国地方」とされるのは大正時代以降である。大陸において「中国」と称する国(中華民国)が成立した明治末期において、日本では府県は「行政上の区画」とされており、地方区分は、当時「地理上の区画」と呼ばれた令制国の区分をもとに、五畿八道が使用されていた。 また、旅行業などを中心に、日本海側の称である山陰と瀬戸内海側の称である山陽を合わせて山陰山陽地方(さんいんさんようちほう)の呼称を用いることもある。「陰陽」(いんよう)と称する事例もあり〔島根県HP の二ツ山城跡の記述の中〕、特に山陰と山陽を結ぶ交通手段については、古くから「陰陽連絡」という語句が用いられている〔大阪朝日新聞広島山口版の1918年12月17日付けで、記事見出しが「陰陽連絡鉄道」となっている他、バスジャパン・ハンドブック5『中国ジェイアールバス』p18-19、p24、p27、p29、p33、鈴木文彦『高速バス大百科』(1989年・中央書院)p81など、用例多数。〕。 東国に対して西国(さいごく)と呼ぶこともあるが、例外的である。また、より広域的に四国地方と合わせて、中国・四国地方(中四国)と呼ぶこともある。 便宜的に、兵庫県の南西部(旧播磨国)と北部(旧但馬国)を含める場合もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中国地方」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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