|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 中 : [なか] 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among ・ 安閑 : [あんかん] (adj-na,n) easygoingness ・ 閑 : [ひま] 1. (adj-na,n) (1) free time 2. leisure 3. leave 4. spare time 5. (2) farewell ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
中安 閑一(なかやす かんいち、1895年〈明治28年〉4月5日 - 1984年〈昭和59年〉1月31日)は、日本の経営者。元宇部興産会長、元経済団体連合会常任理事、元日本経営者団体連盟常任理事、元経済企画庁経済審議会専門委員、元産業機械統制会理事技術部長。 == 来歴・人物 == 山口県宇部市出身である。宇部尋常高等小学校を卒業後、山口中学校に入学。中学時代は模型飛行機作りに熱中しながら勉学に励んだといい、卒業後は機械工学を学ぶため東京高等工業学校機械科(現・東京工業大学工学部)に入学した。 1918年(大正7年)3月に東京高等工業を卒業すると、三菱重工業に入社した。当時は戦争景気に沸き高給を約束してくれる会社も多かったが、当時三菱がイスパノシーザーと呼ばれる飛行機を製造していたことから入社を決めたという。しかし、入社後に配属されたのは神戸造船所であり、希望していた飛行機製造の仕事ではなかった。そのような中、同郷の渡辺祐策からの誘いもあり、1923年(大正12年)に故郷の宇部セメント製造(のちの宇部興産)に入社した。 その後、1934年(昭和9年)に同社専務取締役、1936年(昭和11年)に同社子会社の朝鮮セメント常務取締役となる。1942年(昭和17年)には産業機械統制会理事技術部長に就任し、戦時体制確立に協力した。1944年(昭和19年)に宇部興産が発足すると同社専務取締役に就任し、戦後、俵田明代表取締役社長(当時)のもとで同社の業容拡大に貢献する。1952年(昭和27年)、同社代表取締役副社長に昇格するとともに宇部商工会議所会頭に就任。また、同社子会社の宇部化学工業(現宇部マテリアルズ)取締役なども兼任した。 1958年(昭和33年)、俵田が死去したことをうけて同社社長に就任する。中安は「宇部市の経済発展のためには空港・テレビ局・ゴルフ場が必要」と唱え、1960年(昭和35年)に宇部72カントリークラブを開場させ、1966年(昭和41年)には宇部空港(現山口宇部空港)が開港した。テレビ局は1970年(昭和45年)に宇部興産出資のもとでテレビ山口が開局したものの、山口県の強い要望を受け、本社は山口市に置かれることになった。 また、このころ国鉄のストライキ頻発などで宇部興産の美祢市、宇部市の工場間の石灰石輸送が不安定な状態にあったため、中安は代替ルートの自社による新設を決定。ベルトコンベヤー・鉄道・道路の3案が検討されたが、中安は地域活性化に資するとして検討案の中で最もコストが高いとされた「道路」を選択、日本一長い私道である宇部興産専用道路を誕生させた。1977年(昭和52年)に社長を退任した後は同社会長、相談役を務め、宇部興産ビル建設と宇部全日空ホテル(現ANAクラウンプラザホテル宇部)誘致に取り組んだ。 中安は宇部興産の要職を務める傍ら、経済企画庁経済審議会専門委員、日本特許協会会長、三和銀行顧問、大韓民国による第四次五力年計画調査団の団長(初の官民合同使節団)等を歴任し、日本財界の雄としても活躍した。1959年(昭和34年)に藍綬褒章を受章、1965年(昭和40年)に勲二等瑞宝章、1972年(昭和47年)に勲一等瑞宝章、勲一等旭日大綬章の叙勲を受けている。 1984年(昭和59年)1月31日死去。享年88。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中安閑一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|