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藻璧門院少将〔「藻璧門院少将」、デジタル版日本人名大辞典+Plus、コトバンク 〕(そうへきもんいんの しょうしょう、生没年不詳)は、鎌倉時代初期に活躍した女流歌人。新三十六歌仙と女房三十六歌仙の一人。勅撰歌人・藤原信実の次女。弁内侍(後深草院弁内侍)と後深草院少将内侍の姉にあたる。 朝を告げる雄鶏の鳴き声に一夜を共にした男女のしばしの別れのつらさを代弁させた「己が音」の恋歌が絶賛されたことでその名を馳せた。この代表作によって彼女は己が音の少将(おのがねの しょうしょう)の異名を取るにいたった。 なお二字目の「ヘキ」は「完璧」の「璧」(下のつくりが「玉」)が正しい字だが、「岸壁」の「壁」(下のつくりが「土」)を用いた「藻壁門院少将」とした文献も古来より非常に多く見られるため注意を要する〔少将が女房として仕えたことからその女房名の一部として用いられるようになった女院・藻璧門院の院号は、平安京大内裏ののひとつ藻壁門(西中御門)の名称に由来するものだが、藻が絡みついた土壁を想わせるその字面は不気味で女院の院号としては不吉ではないかということで、あえて「壁」を別字ながら同音でしかも形もよく似た「璧」(意味は「宝石」)に差し替えたという経緯がある。したがって門の名称としては「藻壁門」正しく、女院の院号としては「藻璧門院」が正しい。そしてその女院に仕える女房が女院の院号を自らの通称に冠することで独自の呼称とした女房名も、やはり「藻璧門院少将」が正しい。しかし時代と筆写を重ねるごとに、草書体ではその判別が難しい「璧」と「壁」の二字は混同され、その結果数多くの権威ある文献においてすら藻璧門院少将の名は藻壁門院少将と記されて今日に伝わることになった。なお「藻壁」か「藻璧」かについては、そもそもその女院の院号定めの時から相当の混乱と混同があったことが藤原定家の日記『明月記』の中にも記されている(天福元年四月廿五日條)。 ''→ 詳細は「九条竴子」項を参照。''〕。 == 来歴 == 寛喜元年(1229年)頃〔三好・吉井(参考文献)〕から後堀河天皇の女御・九条竴子の女房として出仕する。竴子はその翌年中宮に冊立され、翌寛喜3年(1231年)に第一皇子・秀仁親王を出産、翌貞永元年には早くもこの秀仁が即位(四条天皇)して国母となる。翌年4月に院号宣下あって藻璧門院と号すが、同年9月に皇子を難産の末に死産した上、自身も産後の肥立ちが悪く後を追うように落命してしまう。この女院が崩じた後に少将は出家し、旧法性寺跡に移り住んでその余生を過ごした。 藻璧門院少将は『新勅撰和歌集』以後の十三代集や歌合の記録にその作品を残している。死没年は不詳ながら、建治2年(1276年)の『現存卅六人詩歌』にその名が挙げられていることから、その時点ではまだ存命していたことが確認でき〔『羣書類從』和歌部、巻第二百廿四「現存卅六人詩歌」〕、したがって仮に竴子に女房として出仕を始めたのが17歳の時だったとしても、少将は少なくとも還暦を過ぎる年齢にはなっていたことがわかる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藻璧門院少将」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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