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中尾城の戦い(なかおじょうのたたかい)は、天文19年(1550年)11月21日に現在の京都府京都市左京区浄土寺の中尾城で行われた戦い。 == 経過 == 天文18年(1549年)6月の江口の戦いに敗れた細川晴元は京都へ退却すると、室町幕府13代将軍足利義輝とその父で大御所足利義晴を連れて京都から逃げ出し、近江守護六角定頼を頼り琵琶湖西岸の坂本へ移動した。代わって晴元に勝利した元家臣の三好長慶が7月に上洛、将軍を失った幕府に代わり京都の行政を取り仕切るようになり、危機感を募らせた義晴は京都復帰を目論み、10月18日に京都郊外の東山にある慈照寺(銀閣寺)の裏山に中尾城の建設を始めた。翌天文19年(1550年)5月4日に義晴は病死したが、子の義輝も打倒長慶を誓い6月9日に晴元と共に中尾城へ入城、7月8日に東山の麓の吉田・浄土寺・北白川へ出兵した。 14日、三好長逸・長逸の子三好長虎(弓介)・十河一存ら1万8000人の三好軍が上洛、幕府軍も応戦して市街戦となった。しかし、主力の晴元は吉田に、援軍の六角軍は北白川に留まり動かなかったため、足軽100人だけが出撃して小競り合いに終わった(東山の戦い)。この時、長虎の与力1人が幕府軍の鉄砲に当たり死んだ話を公家の山科言継が聞きつけ、日記に書いた記録が日本初の鉄砲使用例とされている。 市街戦は小競り合いだけの戦闘で両軍の主力がそれぞれ大山崎、中尾城へ引き上げたためさほど進展は見られず、10月20日に三好軍が再度上洛、東山の幕府軍と交戦、これも小規模な戦に止まった。しかし、11月に入ると長慶は積極的な攻勢に踏み切り、11月19日に中尾城麓の聖護院・北白川・鹿ヶ谷・田中などを放火して威圧、近江への派兵も企て20日に松永長頼を近江へ向かわせ、大津・松本周辺を放火させた。敵が琵琶湖周辺に進出したため後方を脅かされることを恐れた義輝は撤退を決断、21日に中尾城を焼いて坂本、次いで坂本から北の堅田へ逃れた。中尾城は2日後の23日に三好軍が入り破却された。 義輝が近江へ撤退したため長慶は当面京都の安全を確保できたが、天文20年(1551年)になると2度の暗殺未遂事件に遭遇、それに乗じた幕府軍の京都襲撃が起こり、再び長慶は防衛戦に向かわねばならなくなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中尾城の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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