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中尾銑治 : ミニ英和和英辞書
中尾銑治[なかお せんじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [お]
 【名詞】 1. tail 2. ridge 
: [ずく]
 (n) pig iron

中尾銑治 : ウィキペディア日本語版
中尾銑治[なかお せんじ]

中尾 銑治(なかお せんじ、1935年7月3日 - 2010年1月16日)は、日本国営競馬および日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手調教師。調教師時代のおもな管理馬に、1997年の皐月賞東京優駿を制したサニーブライアンがいる。京都府京都市出身。
長男・俊秀と三男・得治は調教助手、次男・篤吏は装蹄師。それぞれ調教師の中尾謙太郎は実兄、中尾正は実弟、中尾秀正は甥。義兄に騎手・調教師の宮本悳がいる。
== 経歴 ==
1935年、京都競馬場厩務員をしていた中尾嘉蔵の次男として生まれる。2歳年上の兄に謙太郎、1938年に弟の正が生まれている。1941年末に勃発した太平洋戦争の激化とともに、一時父の実家である奈良県に疎開、その後、父の軍事徴用に伴って妹と共に軍港のあった広島県呉市に移った。同地で終戦を迎えたあとに京都へ戻り、中学校卒業後1953年に騎手候補生として鈴木甚吉厩舎に入った。鈴木は日本のホースマンの祖として一系を成し、武田文吾などを育てた名伯楽であったが、当時すでに病身であり、銑治はその最後の直弟子となった。
翌1954年に鈴木の健康状態が悪化し、兄弟子の武田文吾厩舎へ移籍。1956年2月に武田厩舎から騎手としてデビューした。しかし体重が重かったため数多く騎乗できず、目立った活躍はなかった。騎手生活の後半は父の勧めで関東に移り、1970年に騎手を引退した。通算1122戦75勝。
1973年に調教師免許を取得し、翌1974年中山競馬場において厩舎を開業した。初出走は同年10月5日福島競馬第3競走のトウフクバンブーで5着、初勝利は1975年1月6日東京競馬第8競走のエリモシャープでのべ30頭目であった。
1982年のアラブ大賞典(秋)をハイロータリーで制して重賞競走初勝利を挙げた。中尾厩舎からデビューし、当時も所属していた大西直宏が騎乗しており、大西にとっても重賞競走初勝利となった。
GI競走には長く縁がなかったが、1997年皐月賞において、大西騎乗のサニーブライアンが逃げ切り勝ちを収め、GI競走・クラシック競走初制覇を果たした。同馬は続く東京優駿(日本ダービー)も制して二冠を達成し、銑治はダービートレーナーの称号を得た。ダービーでは1987年にサニーブライアンの伯父・サニースワローで2着の経験があり、このときの雪辱ともなった。
ナリタブライアン以来の三冠馬誕生となるか注目されたが、競走後に骨折が判明し、秋の菊花賞を断念、三冠を逃した。同馬はその後、復帰を目指すも新たな故障もあり、そのまま引退となった。
2006年2月に定年により調教師を引退した。調教師としての成績は5122戦350勝。重賞5勝、うちGI競走2勝。謙太郎、正も調教師としてGI競走を制覇している。
2010年1月16日、逝去。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中尾銑治」の詳細全文を読む




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