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戸谷 半兵衛(とや はんべえ)は、18世紀から19世紀の本庄宿の新田町(現在の本庄市宮本町と泉町の辺り)に店をかまえ、代々戸谷半兵衛を襲名していた豪商であり、宿役人。店の名の「中屋」にちなんで中屋半兵衛とも呼ばれた(こちらの名の方が認知度は高い)。中半の略称でも親しまれている。中山道で最大の宿場である本庄宿の豪商として全国的に名の知れた商人であった。本店は本庄宿の「中屋」であるが、江戸室町に支店である「島屋」を持ち、代々京都の方の商人とも付き合っていたため、その人脈はかなり広く、才能にも、度胸(行動)にも優れていた(京都にも支店はあった)。中屋は、太物、小間物、荒物などを商った。戸谷家は、経済面の救済だけでなく、文化面でも影響力が強い一族であり、関東一の豪商ともされる(『関八州田舎分限角力番付』に西方筆頭の大関として位置付けられている)。大名への貸し金も多額であった。しかし、その返済は滞り、未回収金は数万両に及び、この為、安政5年(1858年)頃より、幕府への御用金納入に支障をきたし、名字帯刀を取り上げられ、さらに家財闕所等の処分を受けるが、明治期には回復した。 == 初代戸谷半兵衛光盛 == 通称を戸谷 三右衛門(1703年 - 1787年)と言い、元禄16年に五代目戸谷伝右衛門の次男として生まれる(光盛は諱)。彼については18世紀末から19世紀の随筆『耳袋』にも記されており、その豪傑ぶりと知名度の高さがうかがえる。ただし、『耳袋』は噂をもとに記述されているためか、戸谷を鳥居と記述しているなど、明らかな誤表記が目立つ。『耳袋』の記述によれば、三右衛門は元々通り油町の仲屋と言う呉服店に丁稚(でっち)から勤め、重手代にまで登りつめた人物とされ、その後、成功して、呉服やその他諸品を商ったとされる。多くの活動が認められ、公での名字帯刀を許されていた。中屋の暖簾印である¬中ム(縦に並べて書く)は三右衛門が考えたもので、『中』は家名の中屋を意味し、こう書くことによって、『虱(シラミ)』と言う字になる。印の意味を訊ねられた三右衛門は、「シラミはよく増えて絶えないから」と答えたと言う。『商家高名録』の中で中屋の暖簾印を確認する事ができる(ムと言うより中の字の下に△)。 明和8年(1771年)に久保橋、安永2年(1773年)には馬喰橋を自費で石橋に掛け替え、天明元年(1781年)には神流川に土橋を掛け、馬船を置き無賃渡しとした。天明3年(1783年)の飢饉時には麦百俵を、また、浅間山噴火による諸物価高騰の際には貧窮者救済金を拠出する等の奇特行為により、名字を子孫まで許される(帯刀については一代限り)。天明7年(1787年)に85歳にして没する。 『耳袋』や『新編武蔵風土記稿』では、光盛(みつもり)ではなく、三右衛門の通称で記述されているが、隠居後も活躍し続けた事で、三右衛門の名の方が世間では有名となった為である。『耳袋』では中屋三右衛門の名で記載されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戸谷半兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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