|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 中 : [なか] 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 俊 : [じゅん] 【名詞】 1. excellence 2. genius ・ 丈 : [だけ, じょう] 1. (prt) (uk) only 2. just 3. as
中山 俊丈(なかやま としたけ、1935年12月14日 - )は、中日ドラゴンズに所属したプロ野球選手(投手)。愛知県名古屋市昭和区出身。引退後はコーチを3期務めたほか、台湾球界で監督を務めた。 == 来歴・人物 == 中京商業高校では、同期の加藤克巳(巨人)とバッテリーを組み、エースとして甲子園に4回出場。の春の選抜では、1回戦で「瀬戸内少年野球団」で知られる洲本高に敗退。洲本高はこの大会に優勝。同年夏の選手権では準決勝まで進むが、この大会準優勝の土佐高に敗れる。翌年の春の選抜は、1回戦で坂崎一彦らのいた浪商に敗退。夏の甲子園では順調に勝ち進み、決勝で松浦三千男、興津達男を投打の柱とする静岡商と対戦。松浦との投げ合いを3-0で制し優勝を飾る。 、中日に入団。左の本格派投手として主に先発として活躍した。・には2年連続で20勝を挙げている。しかしその後は故障もあり一時低迷。フォームをサイドスローに変えて復活しに9勝、には対巨人戦でノーヒットノーランを達成している。こうした経緯から「巨人キラー」と呼ばれていたという〔『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボール・マガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 p.30(川上哲治が日本プロ野球初の2000本安打を達成した際の投手としての紹介)〕。 1956年5月31日の中日球場での対巨人戦の8回、川上哲治に日本プロ野球初の2000本安打を打たれた(ショートとレフトの間に落ちるテキサスヒット)。 また、改名が多く、入団からまでは「俊丈」、からまでは「義朗」、からは「稔丈」を名乗っていた。 に現役引退。その後はまでコーチを務めた。以降、から、からの2度コーチ就任の時期を経て、には台湾プロ野球の兄弟エレファンツ監督も務めた。 一時期、東海ラジオとCBCで野球解説者を務めていた。には中京大学の野球部コーチに就任している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中山俊丈」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|