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中山 信安(なかやま のぶやす、1832年8月22日(天保3年7月27日)〔『明治過去帳』新訂初版、597頁。〕 - 1900年(明治33年)6月19日〔『幕末維新大人名事典』下巻「中山修輔」218-219頁。〕)は、幕末の幕臣、明治期の内務官僚。茨城県権令。通称・修輔〔、修助〔『百官履歴 下巻』367-368頁。〕。 ==経歴== 相模国で生まれる〔。漢学を東条琴台に〔「正七位中山信安特旨ヲ以テ位二級被進ノ件」〕、蘭学を緒方洪庵に学び、開国論を唱えた〔〔『茨城県政と歴代知事』29-32頁。〕。神奈川奉行所定番役、新徴組支配定役、御蔵奉行、鉱山取締、佐渡奉行所組頭などを務めた〔〔〔。戊辰戦争が始まると、奉行が退去した後に迅雷隊を組織〔。会津藩士などの来島に対しその駐屯を拒否した〔。新政府に対して統治者の派遣を要請し、中山が佐渡県権判事の辞令を受けた〔。慶応4年7月3日(1868年8月20日)御雇・佐渡国取締となる〔『百官履歴 下巻』367-368頁。〕。明治元年11月(1868年-1869年)越後府権大参事・奥平謙輔が佐渡に渡り、中山は金塊などを引き渡した〔〔。明治2年2月13日(1869年3月25日)佐渡取締を免ぜられた〔。 明治5年5月30日(1872年7月5日)新治県参事に任じられ、1873年12月27日、権令に昇進〔。人民の意見を聞き、印刷機による布告の印刷配布、師範学校の創設、土浦病院の設立などを進めた〔。1875年5月7日、新治県が廃止され、茨城県権令に転じた〔。師範学校の創設、県庁勧業課の設置、勧業試験場の創設などに尽力〔。1876年12月、地租改正に反対して那珂郡で農民騒擾が起こり、その鎮圧のため囚徒を解放して用いたが、それが越権行為として責任を問われ、1877年1月12日、免本官となり位記返上を命ぜられた〔〔〔『新編日本の歴代知事』236頁。〕。 1880年5月12日、長野県少書記官として復帰し〔、1881年1月18日、依願免本官となり退官した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中山信安」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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