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中山 正嘉(なかやま まさよし、1917年7月3日 - 1994年7月4日)は、愛媛県出身のプロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 松山商業出身、1935年の第21回全国中等学校優勝野球大会において優勝投手となった。同校のチームメイトには千葉茂、筒井修などがいた。 1937年、日本プロ野球の名古屋金鯱軍に入団。4月5日、対大東京軍戦で初登板。3安打11奪三振1四死球無失点の内容で、日本プロ野球史上2人目のプロ入り初登板で完封勝利を挙げる、スコアは7対0〔講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」853ページ〕。1940年、5月12日対イーグルス戦で当時の日本プロ野球記録の1試合13与四球を記録している〔講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」634ページ〕。シーズンを通してはプロ野球記録の『1シーズン最多敗戦投手』(29敗)〔但し、非公式記録ではあるが、畑福俊英(イーグルス)は1937年に32敗(春季21敗〈このシーズンの最多敗戦投手〉、秋季11敗)している。〕となる。ちなみにチームの敗戦数63の約半分が彼が責任投手となっている。この年の中山は104試合中61試合に登板し(このシーズンの全球団で最多登板)、18勝している。1941年に引退したが、軍に召集されていたのかどうかは不明。 終戦後は球界を離れていたが、1950年に新規参入した広島カープに入団、32歳で球界復帰。しかしわずか2勝に終わり、翌シーズン中に引退した。入団時には石本秀一監督の命を受け、現役を退いて指導者となっていた樋笠一夫をカープに誘い、入団にこぎつけている。 1994年7月4日に亡くなった。享年77。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中山正嘉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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