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中山 竹通(なかやま たけゆき、1959年12月20日 - )は長野県北安曇郡池田町出身の元陸上競技(長距離種目)選手、指導者。身長180cm、体重58kg(現役当時)。息子の中山卓也も陸上長距離種目選手。 == 経歴 == 1980年代後半に瀬古利彦や宗茂、宗猛兄弟、新宅雅也らと、1990年代前半には谷口浩美、森下広一らと日本マラソン界をリードした。2時間10分を切るサブテン5回は川内優輝、高岡寿成に続き、瀬古利彦、佐藤敦之、藤原新と並び日本歴代3位タイ、2時間9分を切るレース4回は高岡と並び日本最多タイ(2014年現在)。 地元の広津小学校、池田町立高瀬中学校、長野県池田工業高等学校卒業後、国鉄信濃大町駅での嘱託職員、富士通長野工場に勤務しながら競技生活を続け、1983年に創設メンバーとしてダイエー陸上部 へ。佐藤進監督の指導を受ける。同年12月の福岡国際マラソンで初マラソンを走る。瀬古利彦が優勝したこのレースで中山は14位であった。 翌1984年の福岡国際マラソンで2時間10分00秒で初優勝。 1985年4月14日のワールドカップマラソン広島大会で日本最高記録で世界歴代3位(当時)の2時間8分15秒でアーメド・サラ()に次ぐ2位でフィニッシュ(この記録は1986年10月19日の北京国際マラソンで児玉泰介に破られるまで日本最高、1997年12月7日の福岡国際マラソンで早田俊幸に破られるまで国内最高の記録だった)。 1986年にはソウルアジア大会では、序盤から銀メダルとなる谷口浩美らを振り切り独走、2時間8分21秒のタイムで圧勝した。この記録は、四半世紀以上経った現在でもアジア大会の男子マラソンの大会記録として未だ破られていない。 1987年7月2日には10000mで日本新記録(当時)となる27分35秒33(この記録は2001年5月4日に高岡寿成に破られるまで日本記録)をマークした。 同年12月6日のソウルオリンピック代表選考会、福岡国際マラソンでは雪混じりの雨天の中を20キロ通過時点で1時間を切り、35キロ地点まで当時の世界記録を49秒上回るハイペースで飛ばし、最後に失速するも2位以下に2分以上の大差をつける2時間8分18秒で圧勝した。 1988年のソウルオリンピックでは日本の代表3人(ほかに瀬古、新宅)の中ではもっともメダルの呼び声が高く、金メダル候補に推す声も大きかった。2年前にほぼ同じコース・季節のアジア大会マラソンに2時間8分台で優勝していたこともその理由である。本番では中山は他の日本人選手が30km過ぎまでに全員脱落する中、35Km過ぎまで先頭4人(他の3人は、ジェリンド・ボルディン()、ダグラス・ワキウリ()、サラ)の一角に加わっていたが、ゴールの競技場が視界に入ったところで集団から後退した。中山は最後に追い上げるが、サラに6秒差でそのまま4位でゴールする。このとき「1位でなければビリでも同じ」と発言したと伝えられた(ほか日本選手では瀬古利彦が9位、新宅永灯至は17位に終わった)。 ソウル五輪後、指導者の変更を経て、1990年の東京国際マラソンでは、世界最高記録保持者のベライン・デンシモ()、1984年ロサンゼルスオリンピック男子マラソン銀メダリストのジョン・トレーシー()らを相手に序盤から独走で優勝した。 1991年の別府大分毎日マラソンでは森下広一との一騎打ちとなる。このレースでは1987年の福岡国際以来のサブテンとなる2時間9分12秒で森下に次ぐ2位に入る。 1992年の東京国際マラソンでも森下とのデッドヒートに惜敗して2位となったが、2大会連続のオリンピック代表に最後の3番手で選出される。そのバルセロナオリンピック・男子マラソンではゴール地点の競技場へ3位争いで現れたが、トラックでシュテファン・フライガング()に抜かれて4位となった。メダルには手が届かなかったが、二大会連続でオリンピック入賞〔戦後の日本男子マラソン代表では、ほかに君原健二(1968年メキシコ五輪2位、1972年ミュンヘン五輪5位)しかいない。〕を果たした。 バルセロナオリンピック後に一線を退き、後進の指導にあたる。 大阪産業大学、同付属高等学校などの陸上部監督を経て、2004年4月より2009年3月まで愛知製鋼陸上部監督をつとめた。愛知製鋼退任後もマラソン解説者、指導者、講演活動を続けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中山竹通」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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