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中山美伎 : ミニ英和和英辞書
中山美伎[なかやま]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 
: [ぎ]
 【名詞】 1. deed 2. skill

中山美伎 ( リダイレクト:中山みき ) : ウィキペディア日本語版
中山みき[なかやま みき]

中山 美支(なかやま みき、寛政10年4月18日1798年6月2日) - 明治20年(1887年2月18日)は、日本宗教家天理教教祖明治11年11月1日に天理教教会本部より出版された「みかぐらうた」複製本の初版では著者は「奈良県平民 故中山美支」となっているが〔国文学研究資料館 画像データベース 〕、現在の天理教では「中山みき」が公式表記とされる。天理教では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。
== 生涯 ==
寛政10年4月18日1798年6月2日)朝に、津藩領の大和国山辺郡三昧田村(正確には西三昧田村、当時三昧田村は東西に分割され、東は柳本藩領、西が津藩領だった。現在の奈良県天理市三昧田町)の庄屋・前川(まえがわ)半七正信の家に生まれる。『稿本天理教教祖伝』など多くの資料で、幼少の頃からの慈悲深さと同情の心の篤さ、信仰熱心といった記述が多い。前川家は浄土宗檀家であったので、その感化を幼時より受けて浄土宗の熱心な信者となった。浄土宗の尼僧になることを希望し、19歳の時に中山家の檀那寺であった勾田村(現・天理市勾田町)の善福寺にて五重相伝を受ける。
文化7年9月15日1810年10月13日)に、同じく津藩領・庄屋敷村の庄屋・中山善兵衛に嫁ぐ。天理教では、その教義においてこの中山家を含む地所が人間世界創造に由来があるとして、この場所を「元のやしき」あるいは「お屋敷」と呼んでいる。
天保9年10月23日1838年12月9日)の夜四ッ刻(午後十時)、長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、修験道当山派内山永久寺の配下の山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼した〔中野市兵衛の天理教との関わりは、秀司の足の病の祈祷のために天保8年(1837年)10月に寄加持を行ったのがはじめてで、その後は秀司の症状が悪化するたびに中山家で寄加持が行われていた。()〕。その時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となる。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入った。このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいる〔「月日」とは天理教主神・天理王命をあらわすことばであり、天理教では人間にとって身近な存在である月日のように親しみを感じやすくさせるために「月日」と呼ぶとされる。()〕。このときに憑依を悟った市兵衛が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「我は天の将軍なり」あるいは「大神宮」とこたえた〔とされる。市兵衛があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。〔」と語り、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに憑依天啓を受けたとされている。中山家は古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめる家であり、同時に質屋業を営んでおり、みきの伝記である稿本天理教教祖伝には「子供は小さい、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行けるか善兵衞としても、元の神の思召の激しさに一抹の懸念は残るが、さりとて、家庭の現状を思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても、一同揃うて重ねてお断り申し、早々にお昇り下さい。」とあるように、再三辞退を続けたが、みきが「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と申し出を受け入れるならば世の人々を救済するが、拒めば人の世を滅ぼすとこたえ、最終的にみきの家族の反対を振り切る形で、10月26日(同年12月12日)になって、夫の善兵衛がみきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾した〔〔〔。そのときのみきは「満足、満足」とこたえて、憑依が終わったとされている〔。みきの三男で後の初代真柱中山眞之亮の手記に「御持なされる幣を振り上げて紙は散々に破れ御身は畳に御擦り付けなされて遂に御手より流血の淋漓たる」と書かれているように、この間のみきは衰弱していた〔〔『教祖様御伝』(中山新治郎『復元』33号、天理教教義及史料集成部、1958年4月)〕。
こうして天理教が立教されたが、みきはしばらくすると屋敷内の内蔵にこもりがちになり、遂には終日出てこずに内蔵に籠った教祖が誰もいないはずの蔵の中で誰かと話しをするかのように眩く声が蔵の外まで漏れて聞こえてくることもあった〔。次第に中山家の評判は悪化し、史実でも庄屋中山善兵衞の名前は天保10年(1838年)3月晦日付「宗旨御改帳」を奉行所へ提出したのを最後に地方文書から消えている〔。
その後、みきは天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかったとされる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中山みき」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nakayama Miki 」があります。




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