|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 中 : [なか] 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 章 : [しょう, あきら] 【名詞】 1. (1) chapter 2. section 3. (2) medal
中山 裕章(なかやま ひろあき、1967年11月4日 - )は、高知県高知市出身のプロ野球選手(投手)。大洋、中日、台湾球界に在籍し 2003年に引退した。 == 来歴・人物 == 高知商高では1年生の時、1983年夏の甲子園に津野浩の控え投手として出場。準々決勝に進出し桑田真澄、清原和博のいたPL学園との対戦で、津野をリリーフして甲子園に初登板するが9-10の接戦で敗れる。1985年にはエースとして夏の甲子園に再度出場。しかし準々決勝でまたもPL学園の桑田と投げ合い、3-6で敗退した。この時の控え投手に1年下の岡林洋一がいる。また阪神タイガースの藤川球児は中学校、高校の後輩である。 1985年のドラフト1位で横浜大洋ホエールズに入団。1986年の入団1年目から一軍で活躍。1988年には150km/hを記録する速球とフォークボールを武器にリリーフエースを務め、リーグ最多の70試合に登板。10勝24セーブを挙げ、救援投手ながら規定投球回に到達する活躍をみせた。また、同年のオールスターでは2戦連続で勝利投手となっている。1990年と1991年は開幕投手を務めた。 1991年シーズン後の11月12日午後、神奈川県横須賀市内の球団練習所から車で帰宅途中、 横浜市金沢区の11歳の小学5年生の少女のスカートの上から体を触り、その直後にも帰宅途中の6歳の幼稚園女児に、下着を脱がせるなどのわいせつな行為をした。神奈川県警が11月12日の事件を同一犯人の仕業と見て張り込み捜査を続けていたところ、2日後になって高級外国車に乗った中山が女子に声をかけるなどの不審な挙動を獲ったため追跡捜査し、ナンバーなどから中山とわかった。12月25日朝から警察の任意同行を求められ追及を受け、11月12日の事件を2件とも自供したため神奈川県警捜査一課と金沢署は12月25日夕、強制わいせつなどの疑いで中山を逮捕した。住宅地は練習場から車での帰宅路に当たり、「小さい女の子なら自分の顔を知らないと思った」と供述した〔1991年12月26日 読売新聞社会面〕。 強制わいせつに関しては被害者とは示談が成立し、公然わいせつに関しては社会的制裁を受けているということで起訴猶予処分とはなったが、これが原因で契約解除され、プロ野球機構は無期限の資格停止処分を下した〔【6月10日】1994年(平6) 不祥事から2年半 中山裕章 中日の支配下登録選手に - スポーツニッポン 2012年6月10日〕。その後、運送業に就くが、復帰を望むファンは「中山裕章君の復帰を願う市民の会」を作り、21万人もの署名を集め、1年後に資格停止処分は解除される〔。 1993年3月27日、打撃投手として中日ドラゴンズに球団職員として契約〔。1994年6月10日、支配下選手として登録され、契約金なしの推定年俸800万円、背番号67で現役復帰〔。ファンの運動によって再び野球をプレイする事が可能になった彼は「再び野球ができることに感謝の気持ちでいっぱいです。でも被害者がいる以上、罪は反省し自分の中でも消えるものではない」とコメントした。復帰した1994年のシーズンは横浜スタジアムで登板することはなかった。1995年以降は主にリリーフ投手として登板。1996年は、中日がストッパーとして獲得した宣銅烈が不調だったこともあり、代わって中山がストッパーとして活躍、この年はオールスターにも出場した(セ・リーグ監督の野村克也の推薦。野村は中山選出について「罪を憎んで人を憎まず」とコメント) 。その後もセットアッパーから敗戦処理まで幅広く務めていたが徐々にチームが投手王国となり出番が減っていった。2001年に退団した。 2002年に、台湾・中華職業棒球大聯盟の中信ホエールズに入団。2003年に現役引退するまで先発投手として活躍した。引退後は、会社勤めの傍ら、アジア各国との貿易業を行っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中山裕章」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|