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中山 豊三(なかやま とよぞう)は、日本の実業家、雑誌編集者である。中山太陽堂副社長、「阪神間モダニズム」として謳われる大阪の出版社プラトン社社主、太陽製薬株式会社創業社長として知られる。 == 人物・来歴 == 山口県豊浦郡滝部村(現・同県下関市)に生まれる。 実兄の中山太一(1881年 - 1956年)が1903年(明治36年)に創立、「クラブ洗粉」「クラブ化粧品」で知られる化粧品会社・中山太陽堂(現クラブコスメチックス)に入社、やがて副社長となり、1922年(大正11年)、同社が大阪に設立した出版社「プラトン社」の社主となる。中山太陽堂が顧問に迎えていた小山内薫を編集長に据え、プラトン社は、同年5月に『女性』、翌1923年(大正14年)12月に『苦楽』の2誌を創刊した〔#外部リンク内の「太陽製薬株式会社」公式サイト内の「沿革」「会社概要」の記述を参照。二重リンクは省く。〕。 1924年(大正13年)、出身の滝部村の滝部小学校(現下関市立滝部小学校)に、ルネサンス様式の洋館の新校舎を兄・太一と連名で寄贈する〔財団法人日本電信電話ユーザ協会広島支部公式サイト内の「テレコムニュース」の記事「ひと風土記 第11回 中山太一 」(2001年1月)の記述を参照。〕。同校舎は、現在、下関市豊北歴史民俗資料館となっている。 プラトン社は、小山内のみならず、直木三十五、川口松太郎、松阪青渓らの文人、山六郎、山名文夫、岩田専太郎、竹中英太郎らイラストレーター、グラフィックデザイナーを社員として抱え、執筆者に里見弴、吉井勇、岡本綺堂、白井喬二、谷崎潤一郎、菊池寛、山本有三、江戸川乱歩、小酒井不木、横溝正史、牧逸馬、大下宇陀児らがおり、中山は大いに交流した。とくに後半においては、江戸川らの探偵小説作家たちに広く発表の場を与えた〔江戸川乱歩『子不語の夢』(浜田雄介編『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』所収、乱歩蔵びらき委員会・皓星社、2004年10月21日)の1925年8月9日の項の記述を参照。〕。中山が永井荷風に原稿依頼する様子が、永井の『断腸亭日乗』にも登場する〔永井荷風『断腸亭日乗』(岩波文庫上巻、1987年7月 ISBN 400310420X)の「大正十一年十二月九日」(1922年12月9日)、「大正十四年十月廿四日」(1925年10月24日)等の項を参照。〕。 1928年(昭和3年)、6年間をもってプラトン社を廃業した。 1938年(昭和13年)、東京に太陽製薬株式会社を創業する。翌年1939年(昭利14年)、同社は養毛剤の先駆である「マルベリーヘアートニツク」を発売した。桑の有効成分を抽出する製法特許を蚕糸試験場と共同開発して取得した〔。 第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、長男の中山進一が20代半ばの年齢で太陽製薬社長に就任している〔。中山豊三のその後については不詳であるが、存命ならば100歳を超える年齢である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中山豊三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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