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中島 保彦(なかじま やすひこ、1921年11月17日 - 1984年2月9日)は、日本の画家。 自由美術協会会員から主体美術協会会員。日本美術会会員。1957年2月から翌年まで日本美術会の事務局長を務める。 いわき市立美術館に、「炭鉱地帯」(1960年)など、板橋区立美術館に、「溶鉱鑪」(1962年)などが収蔵されている。挿画、表紙画を描いた児童文学作品が多数ある。 ==経歴== *1921年、東京・淀橋に生れる〔中島 保彦 常磐炭田ネットワーク〕。 *1947年、日本共産党入党〔。 *1948年、自由美術展に出品〔。 *1949年、自由美術協会会員に推挙、日本美術会会員となる〔。 *1957年2月、日本美術会の事務局長となる(翌年まで)。委員長は、硲伊之助〔日本美術会と日本アンデパンダン展の略歴 日本美術会サイト内〕。 *1959年、安井賞新人展出品。翌年も〔。 *1960年、三井三池争議に現地参加支援〔。 *1964年8月、大野五郎、寺田政明、森芳雄、吉井忠、麻生三郎、中野淳ら38名で自由美術家協会を退会し、主体美術協会の結成に参加〔沿革 主体美術協会サイト〕。 *1965年6月、準備責任者となった第1回展「主体展」を東京都美術館で開催〔。 *1972年から翌年まで日本美術会附属研究所「民美」所長〔「民美」について 〕。 *1985年1月、東京で遺作展開催〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中島保彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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