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中島啓之 : ミニ英和和英辞書
中島啓之[なかじま ひろゆき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
中島 : [なかしま, なかじま]
 【名詞】 1. island in a pond or river 
: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [これ]
 (int,n) (uk) this

中島啓之 : ウィキペディア日本語版
中島啓之[なかじま ひろゆき]

中島 啓之(なかじま ひろゆき、1943年6月7日 - 1985年6月11日)は、昭和後半期の日本の競馬騎手日本中央競馬会の所属であった。
1974年の東京優駿(日本ダービー)優勝など八大競走を4勝、1970年代から1980年代にかけて関東を代表する騎手であったが、1985年に病死した。通算729勝は当時歴代9位の記録。
父・中島時一戦前の騎手・調教師で、牝馬ヒサトモ1937年の東京優駿をレコードタイムで制覇している。また、弟の中島敏文も元騎手で、引退後にJRA調教師となった。夫人の父は同じくJRA調教師であった高松三太
== 経歴 ==

1943年、父の転戦先、東京都府中市に生まれる〔「続・名ジョッキー列伝」p.126、129〕。太平洋戦争激化により競馬が休止となり、これを受けて競馬界から引退した父時一〔1956年に繋駕速歩競走の騎手として復帰し、京都競馬場の所属となったものの、1958年には騎手免許を更新せずに引退している。〕の故郷・広島県高田郡吉田町(現・安芸高田市)に、生後間もなく移り住む〔〔〔『芹澤劇場-「日めくり」=第1部』小島太の栄光と挫折(1) 〕。終戦後、幼少期に同地で見た草競馬で、馬を巧みに御す少女の姿に憧れて騎手を志した〔「続・名ジョッキー列伝」p.127〕。父親は戦後、競馬が再開されても競馬の世界に戻ろうとせず、中国山地の山間の町で農業を続けることを選んだ〔〔。啓之は当地の中学校を卒業後1959年、馬事公苑騎手養成所に長期課程修習生として入所。卒業後、東京競馬場奥平作太郎厩舎に所属。翌1962年に騎手としてデビューした。同期には郷原洋行榎屋忍中神輝一郎らがいる。
デビューからしばらくは、仕掛け(馬へのラストスパートの合図)が早く「あわて中島」と呼ばれ、勝ち星こそ重ねるものの八大競走などの大レースには縁のない地味な存在だった。しかしときおり人気薄でに絡んでは大穴を出す「万馬券ジョッキー」として、早くから穴党ファンの間では有名であった〔。そして1973年に有馬記念ストロングエイトに騎乗し、10番人気ながら圧倒的人気に推されたハイセイコーを破って八大競走を初制覇。翌年にはコーネルランサーで東京優駿に優勝し、史上初めて父子でダービージョッキーとなる快挙を成し遂げた。
これらの競走における緻密な騎乗への評価は高く、関東を代表する一流ジョッキーと目されるようになり、以後は馬主藤田正明と同郷という縁からトウショウ主戦騎手を務めるなど、重賞戦線で活躍を重ねた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中島啓之」の詳細全文を読む




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