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中島知久平 : ミニ英和和英辞書
中島知久平[なかじま ちくへい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
中島 : [なかしま, なかじま]
 【名詞】 1. island in a pond or river 
: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

中島知久平 : ウィキペディア日本語版
中島知久平[なかじま ちくへい]

中島 知久平(なかじま ちくへい、明治17年(1884年1月1日 - 昭和24年(1949年10月29日)は日本海軍軍人実業家政治家中島飛行機(のちの富士重工業)の創始者として知られ、政治家に転じてからは大臣や政友会総裁を務めた。
== 生涯 ==
1884年明治17年)1月1日群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)の農家中島粂吉(条吉)と母いつの長男として生まれた。
1916年大正5年)中島機関大尉と馬越喜七中尉が、欧米で学んだ新知識を傾けて、複葉水上機を設計した。これが横須賀海軍工廠の長浦造兵部で完成され、横廠式と名づけられた。中島は、航空の将来に着眼し、航空機は国産すべきこと、それは民間製作でなければ不可能という結論を得た。これを大西瀧治郎中尉にひそかに打ち明けたところ、大西も大賛成で、中島の意図を実現させようと資本主を探して奔走した。大西も軍籍を離れて中島の会社に入ろうと思っていたが、軍に却下された。中島の「飛行機製作会社設立願い」は海軍省内で問題となった。中島はこのとき「退職の辞」として、戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を一擲して新航空軍備に転換すべきこと、設計製作は国産航空機たるべきこと、民営生産航空機たるべきことの三点を強調した〔草柳大蔵『特攻の思想 大西瀧治郎伝』文春文庫〕。
大正6年(1917年12月1日、既に同年5月には「飛行機研究所」(のちの中島飛行機株式会社)を群馬県尾島町に創設していた中島は海軍の中途退役を認められ(予備役編入。なお、海軍の機関科は大東亜戦争中に「機関科問題」を経て兵科に統合されたので、中島の最終階級は予備役編入後20年以上を経て、「海軍機関大尉」から「海軍大尉」となっていた〔アジア歴史資料センター 「任商工大臣 海軍大尉正三位勲二等 中島知久平」 〕)、同年12月10日に兄弟で「飛行機研究所」を群馬県太田町に移転した〔。
その後立憲政友会所属の代議士となり豊富な資金力で党中枢へ登り、新官僚や軍部寄りの革新派を形成して勢力を伸ばした。国政研究会(昭和6年~15年)や国家経済研究所(昭和7年~18年)を設立して学者を招致し、国内外の政治経済状況を調査研究させた。昭和14年(1939年3月28日には革新同盟という団体を結成して中島の総裁就任を推進した。分裂した政友会中島派の総裁に就任したが、これは長年の間政友会を支配した鈴木・鳩山派への反感から来る周囲の勧めによるものであり、自ら進んでのものではなかった。
アメリカの国力を知るところから、当初は日米戦争には消極的だったが、開戦後は「米軍の大型爆撃機が量産に入れば日本は焼け野原になる」と連戦連勝の日本軍部を批判し、ガダルカナルの争奪戦では日本の敗戦を予想して、敗勢挽回策としてZ飛行機(いわゆる「富嶽」)を提言するが44年まで無視され、時期に遅れて計画は放棄された。
近衛内閣では鉄道大臣を務め、昭和13年(1938年12月2日に鉄道幹線調査分科会をつくり、同年には海底トンネルのための地質調査も始めさせ、その大陸連絡構想は戦後の新幹線に影響を与えた。その組閣3ヶ月後発足した「大政翼賛会」は幕府的、ファッショ的で立憲政治を侵すとして、強力な政党を作ろうとしたが、終戦まで果たせなかった。
昭和20年(1945年8月17日東久邇宮内閣で軍需相、軍需省廃止で8月20日商工相。同年、元立憲民政党総裁の町田忠治に呼び掛けて新党の設立を計画するが、GHQによりA級戦犯に指定の情報(指定は12月2日)で中止。それ以前の11月26日に院内会派の無所属倶楽部の結成に参加〔中谷武世 著 『戦時議会史』 民族と政治社、(昭和49年)、538-539頁。〕。
昭和22年(1947年)A級戦犯指定解除。
昭和24年(1949年10月29日、脳出血のため急死。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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