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中島豊後守(なかじま ぶんごのかみ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。諱は不詳。織田氏に仕えた。 初め犬山城主織田信清の家老として、小口城主を務める。信清の敵対により信長が永禄4年(1561年)6月小口城を攻めると、これを撃退〔太田牛一 『信長公記』 巻首 「お久地惣構へ破りの事」〕。しかし、信長が間近に小牧山城を築くと、城を明け渡して犬山城に退散する〔太田牛一 『信長公記』 巻首 「二宮山御こしあるべきの事」〕。その後、丹羽長秀の調略により、同じ信清家老の和田定利とともに信長方の兵を引き入れ〔太田牛一 『信長公記』 巻首 「犬山両おとな御忠節の事」〕、信清は甲斐に逃亡した。 以後は信長に仕え、永禄12年(1569年)の大河内城の戦い〔太田牛一 『信長公記』 巻二 「阿坂の城退散の事」〕、元亀2年(1571年)の長島一向一揆攻め〔太田牛一 『信長公記』 巻四 「大田口合戦の事」〕、天正2年(1574年)には織田信忠に従い長島攻めに参加する〔太田牛一 『信長公記』 巻七 「河内長島一篇に仰せ付げらるゝの事」〕が、和田はこの戦いで討ち死に〔『寛政重修諸家譜』〕し、中島豊後守も以後史料に登場しなくなる。同戦いで豊後守の次に交名がある中島勝太は、子で継嗣との推測がある。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中島豊後守」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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