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中川与之助 : ミニ英和和英辞書
中川与之助[なかがわ よのすけ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [すけ]
 (n) assistance

中川与之助 : ウィキペディア日本語版
中川与之助[なかがわ よのすけ]
中川 与之助(なかがわ よのすけ、1894年7月30日 - 1968年8月1日)は、日本の経済学者、元京都帝国大学教授。
富山県上新川郡の農家の長男に生まれる。苦学して東京高等師範学校を卒業、奈良県郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)で教師をしたあと、1924京都帝国大学経済学部卒業、大学院に進み、30歳の時に下宿先の娘鈴鹿俊子(17歳)と結婚、一男二女を儲ける。1928年京大講師、1930年助教授、1931年から1933年までドイツ留学、1943年教授。ナチスの政策を研究。戦後1946年米国の占領政策により公職追放となり京大を辞職。1948年妻俊子と歌人川田順の恋愛が公になり、同年11月にこの事件を取材した司馬遼太郎(当時産経新聞記者)が川田の詠んだ歌の一節を引用し「老いらくの恋」という見出しを付け報じ、流行語になる。翌年妻と離縁。1951年公職追放が解かれたものの、すでに京都大学に空きポストはなく、1952年島根大学教授となる。再婚し、その後甲南大学教授。経済学部長。1956年12月30日朝脳溢血で倒れ、車椅子での生活となる。その後増田冬子と三度目の結婚をする。温泉療養の目的もあり引っ越した城崎で、冬子は毎日温泉に連れて行き、長時間にわたってマッサージを施すなど、献身的な介護を続けた。晩年は近所の人々に囲まれて自宅の軒先で談話会をするのが日常であった。1968年7月31深夜、豊岡市気比の自宅で死去。自宅近くの観正寺にある墓は、与之助の人柄に惹かれた地元の有力者が「これからもずっとこの地にとどまってほしい」と無償で提供した。文学博士。
==著書==

*財政現象の研究 日本評論社 1930
*ナチス社会政策の研究 有斐閣 1939
*ナチス社会建設の原理 富山房 1941 (新経済体制叢書)
*ナチス労働政策の研究 有斐閣 1942
*ナチス社会の基本構造の研究 山口書店 1944
*女性宣言 関書院 1948
*苦悩する魂の記 出口書店 1949
*財政学通論 法律文化社 1953

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中川与之助」の詳細全文を読む




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