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中川 久昭(なかがわ ひさあき)は、豊後岡藩の第12代藩主。 文政3年(1820年)4月4日、伊勢津藩主・藤堂高兌の次男として生まれる。天保11年(1840年)12月6日、第11代藩主・中川久教の死去により久教の養女・栄子の婿養子として跡を継ぎ、同年12月28日には従五位下、修理大夫に叙任された。 幕末の動乱の中で岡藩は尊王派の勢力が大きかったが、親徳川家の藤堂家から養子として入った久昭は天保12年(1841年)に柳井藻次郎、小河一敏ら尊王思想家を岡藩の中枢から排斥した(岡藩七人衆の変)。後に小河は真木保臣らと結託して寺田屋騒動にも関与し、久昭に対しても尊王を訴えたが、久昭は動乱を傍観するのみにとどまった。また、藩でも大火や風雨による被害が相次ぎ、藩財政は困窮した。 慶応4年(1868年)3月11日、上洛した。明治2年(1869年)2月18日、駿府への派兵の遅れから謹慎を命じられた。同年6月19日、版籍奉還を行い、知藩事に就任した。同年9月23日、隠居し、長男・久成に家督を譲った。明治22年(1889年)11月30日に死去した。享年70。 == 栄典 == * 1889年(明治22年)11月30日 - 従三位〔『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中川久昭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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