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中川 亀三郎(なかがわ かめさぶろう、1837年(天保8年) - 1903年(明治36年)10月13日)は、囲碁の棋士。江戸(東京)生まれ、本因坊丈和の三男で、幼名は葛野長三郎、本因坊秀和門下。明治になって幕府による家元制が崩壊した後、村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)らと最初の囲碁結社である方円社を設立し、秀甫没後は2代目方円社社長となる。八段準名人。 2代目中川亀三郎(石井千治の項で記述)と区別して初代中川亀三郎とも言う。 ==経歴== 武蔵国・江戸上野車坂下に生まれる。長兄は水谷順策(後の十二世井上節山因碩)、姉の花子は本因坊秀策妻となる。姓の中川は叔父の家を相続したもの。11歳で本因坊秀和に入門。16歳で初段。安政4年の本因坊秀策の因島帰郷に同道。26歳で五段、29歳で六段。維新後の明治2年(1969年)、本因坊跡目秀悦、林秀栄(後の本因坊秀栄)、安井算英、小林鉄次郎、吉田半十郎らを自宅に招いて例会(六人会)を始める。明治6年(1873年)、小林鉄次郎と十番碁。明治9年(1876年)、林秀栄と十番碁。明治11年(1878年)、郵便報知新聞に初めて囲碁の棋譜として中川-高橋杵三郎戦が掲載される。 明治12年(1979年)4月、 秀甫、小林鉄次郎、高橋周徳らと研究会方円社を作り、副社長となる。秀和の死後は黙許七段とされていたが、明治14年(1881年)に方円社として正式に、秀甫の八段昇段とともに七段昇段。しかしこの後の対局で、秀甫に敗れて先二に打込まれる。ただし秀甫は2子局は打たなかったという。この年から置かれた方円社の常置指南役の一人を務める。明治16年(1883年)に方円社が段位制から級位制に移行した際には、秀甫の2級に次ぐ3級とされる。 明治19年(1886年)に本因坊秀栄が本因坊を秀甫に譲るが、同年秀甫が没し、秀栄との間で本因坊継承のための争碁を申し込まれたが、これを辞して2代目方円社社長となる。この後は後進の指導に尽力した。明治22年(1889年)、今井金江茂と十番碁。明治32年(1899年)に社長を引退し、巌崎健造が3代目社長となる。同年八段準名人に推される。この後に打った田村保寿(後の本因坊秀哉)との碁が絶局となった(田村先番2目勝)。 明治36年(1903年)死去。門下に雁金準一。内弟子でもあった雁金を娘婿に迎える意志があったというが、成らなかった。遺言により石井千次を中川家後継ぎとした。棋風は、若い頃は非力であったが、25、6歳頃から手の付けられない腕力家になり、秀策が乗り移ったとも、父丈和に似てきたとも言われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中川亀三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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