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旭里 憲治(あさひさと けんじ、1965年11月9日 - )は大阪府池田市出身の元大相撲力士。大島部屋に所属した。本名は増田 憲治(ますだ けんじ)。身長187cm、体重140kg。得意手は右四つ、寄り、上手投げ。趣味は睡眠、カラオケ、野球。最高位は東前頭14枚目(1990年7月場所)。 現在は、年寄・中川。 == 来歴 == 小学校4年生から中学校1年生までは野球をやっており、4・5年生の時はエースだった。中学2年からは柔道部に所属。その頃から力士を志し、3月場所が開催される大阪府立体育会館の関係者から大島部屋を紹介された。中学卒業と同時に大島部屋に入門。1981年3月場所で初土俵を踏んだ。翌年9月場所では序二段で優勝し、均整の取れた体格で三段目の頃から注目されていた。立ち合いについて行けず、幕下で苦労した時期も長かったが、1989年1月場所で新十両に昇進。平成時代初の関取となった。 そして、1990年3月場所では新入幕を果たした。同場所では7勝8敗で惜しくも負け越したが、本人は引退時の思い出の取組として敗れはしたものの、この場所の千秋楽、7勝7敗で迎えた小城ノ花との取組を挙げている。同年7月場所で再入幕。立ち合い突っ張ってから左上手を取といった正攻法の取り口で期待されたが、怪我もあり幕内には定着できなかった。1993年1月に結婚、1994年5月場所では4度目の入幕を果たした。その直後に生まれたばかりの長女が亡くなってしまい気を落としてしまったのか、同年5月場所と7月場所とともに大敗が続き、9月場所では幕下まで陥落してしまった。 一時は引退も考えていたが、師匠・大島親方(元大関・旭國)や、後援会、家族に励まされ現役続行を決意。1995年3月場所では、西幕下14枚目の地位で7戦全勝して幕下優勝を果たし、翌5月場所で十両に復帰した。その後、長男が生まれた。以降は幕下に陥落することもあったが、十両で相撲を取り続けることが多かった。1998年1月場所では西十両4枚目に在って5勝10敗と負け越し、幕下に陥落するような成績でもなかったが、同場所千秋楽の一番を最後に現役を引退した。 引退後は年寄・熊ヶ谷を襲名し、大島部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たり、1998年10月に引退相撲を執り行った。当初は先代・熊ヶ谷親方(元前頭8・芳野嶺)から年寄名跡を借り受けていたが、1999年に名跡を取得した。しかし2004年7月、十両・金親が先代宮城野親方の娘と結婚し娘婿となり、引退して年寄・宮城野を襲名。宮城野親方(元前頭13・竹葉山)が急遽熊ヶ谷を工面して名跡変更、そのあおりで実は熊ヶ谷が借株であったことが判明して、追手風親方(元前頭2・大翔山)から年寄・中川を譲り受けた。 現在は追手風部屋の部屋付き親方として、後進を指導している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「旭里憲治」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Asahisato Kenji 」があります。 スポンサード リンク
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